罪の自覚
 
>この道を進ませて下さるのですね。
>聖である霊と呼ばれる方が。今日も。
 
もしこのとおりであるなら
信仰者は罪を犯さないはずです。
 
感謝の祈りを捧げられるでしょうか。
「今日も聖霊の導きに従いました」と。
祈れるとしたら相当な思い上がりです。
 
こういうところなのです。
聖霊によって歩む
・・これはキリスト者の理想です。
しかしそのように歩んだと言えば
神を恐れぬ傲慢です。
 
理想はあっても
過去にも未来にも理想通りだと確定できるものはない。
むしろそうではない反省に向かうべきなのです。
これが神を恐れる態度であり
単なる言葉の問題ではなく
言葉に表れている態度が問題なのです。
 
>この道を進ませて下さるのですね。
>聖である霊と呼ばれる方が。今日も。
 
こういう言い方は非常に紛らわしいので
罪を知っている信仰者は使わないということです。
 
信仰を人の言葉で簡単に割り切れて
一通りの言葉でいつも表せて
それを繰り返しておけばよいと
小学校の道徳でもしないような
教え方をしてしまうのは
安易に考えている証拠でしょう。
 
恐れを抱く人は
人の不全、人の言葉の不全
さらに人の思考の不全という
人の欠点を知るゆえに罪を知るでしょう。
 
聖霊は信仰者を正しさへ導きます。
しかし人はしばしばそれに気づかないことがあります。
そこに罪が生まれますが
悔い改めのために私たちは
せめて罪に気づけるようでありたいものです。
・・というところから始めるべきでしょう・・
 
 
(2014年12月29日、同日一部修正)