理性と聖霊
 
 
どうしても聖霊と理性を対立させて
理性の判断を駆逐したいようです。
 
それについては前に
教理は狭小な理性の産物
ということを書いたのですが・・
 
>私たち、自分の理性を絶対化し、
>その理性の判断を
>天の神、主と呼ばれる方よりも上に置いている者なのですね。
 
理性の判断を
絶対化しているのではなく
 
神を信じている人さえも
人としての立場をわきまえるなら
人間離れした作用が特別に自分に降ってくるというのは
あまりにも不遜であろうと思うから
理性以外に持ち合わせがないので
仕方なく用いているのです。
 
それを犯罪人みたいな言い方をしている人こそ
自分の判断と言説を
聖なる霊つまり神と同一であると説いている
自らの思い上がった霊性の罪深さを考えるべきでしょう。
 
理性ではなく
聖霊に導かれることが信仰だと言いたいのでしょうけれど
そのような神の領域の判断を
直接いつも聞くことが出来ていると思い込んでいる人こそ
傲慢であり
聖なる霊から最も遠いことが分からないのでしょうか。
 
>それで、その理性の判断によって神を選ぶのですね。
>どの神を採用するかを決める立場に自分を置き、
>それが当然のことだとして怪しみもしないでいる。
 
どういう経験を経てきているのでしょう。
 
そんなに人の人生と命を委ねるような
神の候補者って多いのでしょうか・・
誰が神に採用通知を発行できるというのでしょう。
 
人は例えば私は
日本の家に珍しくない仏壇のある家に
生まれ育ちましたが
色々な縁に導かれて教会を知り聖書を知り
信仰を志して今に至っているわけです。
 
どういう経験を経てきているのでしょう。
 
非キリスト者が
また自分の言説に異を唱える者が
偽りの神を選んで
怪しみもしない・・などと・・
あなたはこう言ってしまうことで
私だけでなくとても多くの人々を罪に定めています。
神が人の正邪の決めるような
そんな資格をあなたはいつ得たのでしょう。
 
>その在り方は的外れな在り方だと認めて、
>天の神、主の主権を認め、
>イエスの十字架の処刑によって現された、
>この方の憐れみと愛をいただいていく者を、
>聖である霊と呼ばれる方による
>新生と更新の洗いをもって救って下さるのだそうです。
 
>永遠のいのちの関係に生きる者として下さり、
>新天新地を相続する者にしていただけるのだそうです。
>暗いこの世をこの希望をもって
>生きさせて下さるのだそうです。。今日も。
 
的外れ=罪という見方は
キリスト教において一般的です。
教理の文脈をなぞっているようですが、
ここでの言い方は今までの誇大的夢想の
「大安心」や「満足、充実」に比べると
必要以上に退却しています。
新生、更新、永遠、新天新地、そして
暗いこの世を希望をもって、・・
あなたに暗いと言ってもらう必要が
どこにあるでしょうか。
また
多くの人も、キリスト者も、私も、
あなたの文脈が追っているような
まるであの世のような新天地ではなく、
今この世を過ごすための必要を求めています。
 
もう教理として全うを装っても
あなたの言説は教理的文脈の一歩外に出た途端に
不安定で乱れていて
攻撃性以外に気持ちも汲み取りにくく
無理やり希望を取って付けて語り得たことにしている。
 
さらに相変わらず
自らの罪を棚に上げて対象とせず
指し示すのは他者の的外れの罪ばかり・・。
 
一般的な言い方をすれば
一般の人々をあなたの定める的外れの罪に定める
ということも分からずに
新たな展開が期待できるわけでもない言説なのに
執拗に口だけは減らない人へ。
いっそ一般の人ではなく
嫌味ったらしい言説の標的は私だと名指しして
限局したらどうですか。でもそうなったら
私は
あなたという人間と
私という人間に
罪があるとかないとかの差がどこにあるか
という話を進めることになるでしょう・・
 
あなたは自分が攻撃されている
と思っているかもしれないが
あなたの一面的な言説はそれだけで
とても一方的であり攻撃的であります。
体調の問題もあって
少し控えようかと思っているところに
また今日の
自分には理性はなく聖霊だけだ
とでも言わんばかりの
「理性絶対化」の大罪という話ですから
・・誰も理性を絶対化などしていないのに・・
 
 
(2014年12月30日)
(2015年01月06日、一部修正)