理性と信仰
理性では決して神を捉えることは出来ない。
(ここでは「捉える」とは「理解する」ことを指す)
では何によって神を捉えるか。
何のことはない。
何をもってしても神を捉えることは出来ない
ということを認めるのが信仰の第一歩である。
聖霊によって理解する?・・否である。
聖霊も神の領域ゆえに捉えることは出来ない。
聖霊に捉えられることはあるかもしれないが
聖霊に捉えられたと理解することは人には出来ない。
聖三位と人間の位格の違いを考えれば当然のことである。
捉えがたい神を
その意志と行為を理解するのではなく
神によって見られ聞かれていることを信じることが信仰である。
そういう事情だから
人は神に対して恐れを抱くことになる。
この恐れを持たない信仰はあり得ず
もしあると言うなら
それはよっぽど不当な
人の確信による自分信仰という偶像崇拝に他ならない。
したがって理性で神に憧れ
神を思い描いて祈るとき
人は必然的に不可避的に偶像崇拝をしていることになる。
これが信仰の原罪である。
この偶像崇拝を
折に触れて自覚し反省することによってのみ
人は偶像に蝕まれることから立ち直ることが出来る。
自分信仰の偶像崇拝は
よほど自覚しない限り偶像から立ち直ることは難しい。
何故なら元々立ち直ろうという意思を持っていないからだ。
以上に述べたような信仰が生まれ
また維持される力を
詳(つまび)らかにすることは人には到底出来ないが
人の立場から言えることは
何らかの体験を通してキリストを好きになることだろう。
神から人の信仰がどのように見えるか
人は知らない。
人から見ると信仰はこうとしか見えないということを考えている。
(2014年12月30日)
神が関わる人の信仰を人の言葉で表すことは
不可能に近いほど難しいことだと思います。
しかし人は人の言葉しか持っておらず
ゆえに語らなければなりません。
時々私も混乱することが今もこれからもあると思うので
せめてそれぞれの時点で
考えをまとめる作業をしてゆくことになるでしょう。
私は何も悟ってはいないのですから・・失礼。
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