詭弁
 
 
>天の神、主は、御自身が直接働かれることもあるようですが、
>多くの場合、人を通して、人を用いて働かれるようですね。
>人間を同労者、御自身と共働する者として、
>栄光を分け合おうと思って下さっているということでしょうか。
 
神が御心の成就のために人を使うことはあるでしょう。
しかし
「神が人を使う」ゆえに「人は神が分かる」
というのは思い上がった人の考え方です。
 
「神が人を使う」
神はそのことを知っているが
人は神より低い存在であるから
人は人知を超えた神の意思を確定することは出来ない。
 
>栄光を分け合おうと思って下さっているということでしょうか。
 
よほど自分に栄光を帰したいのか・・
 
少なくとも今の世にあっては
栄光は神のものです。
 
さりげなく詭弁をぶち込んでくるものです。
 
もし推測を書いたに過ぎないという言い訳なら
栄光は神のものだから
 
>人間を同労者、御自身と共働する者として、
>栄光を分け合おうと思って下さっているということでしょうか。
 
とは書かないはずです。
 
ほのめかすような婉曲的表現の狡さについては前にも指摘しました。
 
>イエスを、
>死者の中からよみがえらせなさった父である神と呼ばれる方が、
>私たち一人一人に対して持っておられる御思いを実現して下さり、
>私たち一人一人を通して働かれるために必要な、
>全ての良いものを準備していて下さるのだそうです。
>このヘブル書の記者の祈りのように。新しい年も。
 
間違ってならないのは
これが神を待ち望む祈りと願いだということです。
 
いつのときも人に分かるように成就された、
または成就されるから安心だ
という既知のことを語っているのではありません。
 
「新しい年も。」と書いてしまうと
では今年もそうであったと言うことになります。
神が必要なすべての良いものを準備していて下さったかどうか
「下さらなかった」と言えば背教のような気がして
かといって
今年とても辛かった人が
「下さった」と神の前で言えば
神の前で自分に偽ったことになるでしょう。
神の意思も行為も
人間に判定できるような安物ではありません。
 
どちらも言わなくてよいのです。
祈りと願いでよいのです。
それが人間の務めですから。
 
人としての身の程をわきまえない者は
自分は既に神を知っているということにしたいので
これらのような詭弁を婉曲的な言い方で語ります。
 
かつ無反応で言いっぱなしなので
一度も間違いを認めたことがありません。
・・十分注意したほうがよいでしょう。
 
 
(2014年12月31日、同日一部修正)