砕けた魂
 
 
前に「鰯の頭」と書いたことがあったけど
理想像つまり心の中の偶像があって
それを心で仰いでいても
それに向かって祈っていても
許されてほしいという場合がある。
 
一つは偶像だという意識がある場合
前にも書いたが
これは信仰者の常態であるので
自覚があれば修正可能である。
 
もう一つが今回のテーマなのだが
砕けた魂ということ・・
 
例えば
崖っぷちにいる人
そこに住んでいるしかない人
 
また
キリストの山上の垂訓の
「心貧しき人」につながる。
 
マタイによる福音書(新約聖書)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
  (マタイ書)
 
また
「砕けた魂」のいるところ
 
詩篇(旧約聖書)
51:3
わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4
わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。
それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
 ・・・・
51:16
あなたはいけにえを好まれません。
たといわたしが燔祭をささげても
あなたは喜ばれないでしょう。
51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
  (詩篇)
 
何らかの苦難の中にいて
生死の境界近くにいて
死活の瀬戸際にいる
 
この世ではとても孤独
 
自慢できる何ものも持たない。
思い上がりようがない。
 
信じているのが偶像であろうとなかろうと
自らの権威を求めようがない。
 
自らが生き続けることでしか
信仰を示すことが出来ない。
 
祈るしかない。
 
こういう人は他のいかなる信仰者よりも
牧師よりも神学者よりも偉大だ。
 
 
(2014年12月31日)
 
 
  徒(いたずら) (再録)
 
 
徒な出会いであったかもしれぬ
片隅に腰掛けて
俯(うつむ)いていた小さな影
あるいは老婆か
生きるための祈りであったか
死にゆくための祈りであったか
別のことであったかもしれぬ
ああ誠に徒なる
かの人が出会い
私が出会ったのは
私が無駄な時も位置も捨て去りたいとき
この世で最も無為な徒労へと引き戻す
墓穴が欲しければ
それを指で掘り
それを再び指で埋めよと
そして小さな影の
かの人を思い出す
大きな雲の
空を見上げるように
 
 
(1998年1月21日)