乱用
 
 
今まで彼が言ってきたことについて
信仰を自己中心に解釈して凝り固まり
曲解し独善に陥ったがゆえの非人間性や
数々の矛盾や破綻を
指摘してきたつもりですが
 
彼はそれでも
自分は聖霊によって語っていると言うのでしょうか。
自分が自分の人間離れしてゆく言説を結局
誰のせいにしようとしているか
分からないのでしょうか。
 
今回は半ば脅迫めいた書き方をしています。
ひたすら他者に向けて・・
このことがそのまま
自分を棚に上げて深みがなく
よそよそしい他人事の語り口につながっています。
 
自己の教理からの信条しか語れない人そして
自分自身の不全と罪について実感を持たない人の
恐ろしさを感じます。
 
>人間に従うよりも
>神に従わなくてはなりません。使徒5:29
 
こういうことは信仰者のみならず
どの自分信仰者もカルトも言うのです。
 
こういう短い「聖句引用の危険」は既に書いたことです。
 
>私たち人間、・・
>自分の理性を神とし、
>自分一人で善悪を判断し、
>決定する者となっているのですから(創世記3:22)
 
自分を含めた主語であるのに
へりくだった自分ではなく
まるで客観的に眺めるかのように
実感として訴える内容もなしに
どこまでも教える立場で語っているようです。
 
聖書は創世記の失楽園のところです。
 
 (創世記、口語訳)
3:22
主なる神は言われた、
「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、
善悪を知るものとなった。
彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、
永久に生きるかも知れない」。
3:23
そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、
人が造られたその土を耕させられた。
3:24
神は人を追い出し、エデンの園の東に、
ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、
命の木の道を守らせられた。
 (創世記3:22-24、旧約聖書)
 
この聖句の感想としては
人が自分の価値判断を持っている実存
また持たなければ生きていけない現実
つまり人の知恵ということなのでしょう。
その中には悪しきものも
罪を犯させるものもあるということなのですが・・
 
彼は神の基準で生きる道を示しているつもりのようだが
具体的なことは何一つ示し得ていません。
 
彼はここを根拠として
理性を神とすることを御心に背くことと見なし
誰が理性を神としているのか分からないけど
今までの記事からは
まるで毛嫌いしているように
理性は敵だ
と解釈しているわけです。
 
>その私という人間に従うよりも、
>神に従うことこそ生きる道なのだそうです。
 
こういうことは
どの自分信仰者もカルトも言うのです。
 
そして
このこと以上のことを
彼は何も語っていません。
 
教理の繰り返しだけ、
これこそ理性の硬直した姿なのです。
 
つまり人に与えられた柔軟な可能性である理性を
既に処刑済みにしてしまっているからです。
 
理性を肉欲と同じ扱いで忌み嫌い
否定して排除した結果
教理ワードだけが一本調子で残り
敬虔からも思索からも祈りからも何も語れず
 
それで教理の同語反復を神の言葉として
語ったから分かれと言うほうが無理なのです。
 
 
そして勢いだけで内容の薄い言説によって
肉と理性を悪の対象として同一視した上で
極めて誤解を招きやすい聖句の引用で
 
>肉(生まれたときからの私という霊)に従って生きるなら、
>あなたがたは死ぬのです
 
この聖句と解釈を
相変わらずの教える立場から
いったい誰に向けようというのでしょう。
 
 
(2015年01月26日)
・・何かぼうっとしてる・・
文脈の乱れ、間違い、等々、ご指摘いただければ幸い・・