完了?
 
 
>私たちは、このプレゼントをもらいさえすれば、
>神に対して生きている者と計算していいのだそうです
 
どういう計算か知らないけど・・計算?・・
彼の言うプレゼントをもらうことというのは
彼のような人のイエスマンになること
また、教会組織の下僕になることです。
 
人に服従する者は
神に対して生きている者とは呼びません。
 
>もし私たちが御霊によって生きるのなら、
>御霊に導かれて、進もうではありませんか(ガラテヤ5:24~25)。
 
 
  (ガラテヤ人への手紙、口語訳、新約聖書)
5:25
もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、
また御霊によって進もうではないか。
5:26
互にいどみ合い、互にねたみ合って、
虚栄に生きてはならない。
  (ガラテヤ5:25-26)
 
 
自分の教理からの信念と
聖霊を同一視しています。
これだけはやってはならないという例です。
・・聖霊の何たるかを知り得ないのが人間・・
 
したがって
互いに挑み合い互いに妬み合う
ということを彼がやっていないのは
受けずに書く
・・ということに一貫しているからです。
 
「・・です」に対して
批判者「「・・です」ではない・・」
それに対して
「・・ではないという意見に対して・・だから
 ゆえにやはり・・です」
と書くのではなく批判を受けないから
相変わらず
「・・です」を書き続けることが出来るのです。
話にならない文字通りを繰り返しています。
 
受けて書く
ということがいかに重要であるかが
かえって浮き彫りになります。
彼からは自己完結と訂正不能の典型を見ます。
 
彼のような人だから
虚栄に生きて・・
結論以外を単純に切り捨てます。
・・考えない分、効率はいいのでしょう・・
 
聖書の中では
迫害の時代ですから
虚栄の意味も単純でよかったのです。
 
現代そして現在では
笑みを絶やさぬ穏やかで柔和な先生
という立場を守ろうとすることこそ
虚栄でしょう。
生きている人間なら
そのような立場を保持することは出来ないと思います。
 
彼は虚栄を繰り返しています。
虚しい栄だから繰り返せるのです。
 
繰り返せば繰り返すだけ喜ばれるような
安物の特売のようなものです。
・・安物でも多くは実(じつ)があるのですが・・
 
したがって
聖霊に従って進む
ということについて彼は何も語っていません。
彼は前提として語るだけで
 
易しさと難しさが同居している聖書を
皮だけ示して
形式的文言に終始して
とても神秘的な
服従だけを強いるような
不能の書に変えてしまっているのは彼です。
 
そして人間として
何も考えなくてもいいと勧めるから
前提だけ繰り返せばよいという判断になります。
 
罪は完了、まさに
「しまっている」状態が彼なのです。
・・いってしまっているような・・
 
>天の神、主からの、
>私たちへの一方的なプレゼントなのだそうです
 
地の神がかり、彼からの
私たちへの一方的なプレゼント
というより命令を発することの使命感に
彼の悦に入っている気分を感じます。
 
>キリスト・イエスにつく者は、
>自分の肉(生まれた時からの私)を、
>さまざまな情欲や欲望とともに、
>十字架につけてしまったのです。
 
子供を抱いている写真は誰なのでしょう。
 
子供を作るな・・では決してなく
 
前提を語るなら
まずはっきりと言うべきなのです。
 
自分が自分の生涯において
欲望から自由になることはないということ・・
 
罪が十字架によって贖われた
ということはよく聞きますが
 
欲望を十字架に付けたとは?
なくなったとしたら歳のせいか
でも種々の欲望全部なくなることはないでしょう。
あるとしたら何故よりによって
キリストを引き合いに出して十字架につけたなどと・・
 
文章の表現も筋道も
彼が理性を敵視したときから
スポイルされてきたのでしょう・・
その結実が現れています。
 
罪と
罪の赦しとを
混同して書いてしまうのも
「しまっている」状態が前提にあるからでしょう。
 
罪の赦しを祈らないのかな・・???
 
>イエスは、十字架上でこの手続きが「完了した」と宣言された
>のですね(ヨハネ19:30)。
>今、私たち人間は、罪に対して、
>死んでいるものと計算していい
>のだそうです。
 
この言い回し・・また計算・・
私たちではなく
キリスト・イエスの使命が「完了した」「終わった」
ということです。
私たちの罪も愛も使命も完了するのは
私たちそれぞれの(死ぬ)時です。
あとは裁きが待っている・・くらいに考えます。
生きている間
完了したと思い込んでいるのは彼であって
私たちは完了することはありません。
どうしてもそうとは思えないということです。
完了した自分信仰よりは
未完のろくでなしの罪人として生きる人を
クリスチャン、キリスト者、信仰者と呼びます。
 
 
(2015年01月28日、同日加筆修正)
ほうほうのていで書いて・・一応ですが、この辺で・・と
念のため・・
私は病気で心身の痛みにあえいでいるダメ人間の罪深いろくでなしですが
私は欲望を十字架につけたなどという大それた不遜な書き方はしません。
欲望を十字架につけると言えるほど強くも正しくもないから・・
・・ゆえに神を恐れるから・・
 
今まで作ってきました。参加者の皆さんにはお世話になってます・・
 トーナメント「未完?」作成
 
(補足)
子供の写真は・・ひょっとして幼児洗礼かな・・
だとすれば、一応お詫びいたします。一応というのは
要は、罪がなくなったかのような
罪を十字架につけたという表現の不備を指摘したいということです。
 
(2015年02月01日、一部加筆修正)