害悪
 
 
今回の記事は
前に書いた私の知っている数少ない哲学用語
 
ルサンチマン = 弱者に募る怨念 = 弱者の道徳
 
という言葉がすっぽり当てはまる典型のようですから
このテーマが今に至るキリスト教の大きな問題として
信仰者にしばしば見られる偽善と害悪の
被害者意識と他罰的念慮の表れなのですが
・・前にも書いたんだけど・・
 
 
聖書の戦争と迫害の時代の話を
今の自分に当てはめて
信仰によって耐えることを説いている
 
自分に都合の悪い批判や指摘を迫害と同一視して(怨念)
信仰によって耐えている被害者の姿を自らに擬して(道徳)
「今に見ておれ、いつか神様が・・」精神によって(怨念)
誰かを悪者にして
この世ならぬ秩序と恵みに生き、
かつ、愛の強さを説いているつもりの自らの
奇異な「お高く留まる?」高潔さを顕示している(道徳)
 
神の善と自らの怨みを坩堝(るつぼ)に入れて
かき混ぜては自分のもたらす害悪を無視し
他者の害悪を滅ぼしたまえと熱く煮えたぎる内燃機関・・
 
 
>安心なのですね。
>あの方が一緒にいて下さるから。
 
>自分で自分を守り、自分一人の判断で行く道を決めないといけないのなら、
>いつも、間違わないように気を張っていないといけなくなりますが、
>力強い導き手、相談相手がいてくれれば、
>死の陰の谷を行くときも心強く、
>苦しめられることがあっても行き詰りきることはなく、
>途方にくれますが失望に終わることはなく、
>虐げられますが見捨てられてしまうことはないのですね。
 
自分で判断をしていないと言いたいのでしょうか。
自分の不手際を認めず
自分の行いの総てを神の領域に帰するなら
不手際はいったい誰のせいになるのか
という見方を恐ろしく欠いている自分信仰の思想です。
 
苦しめられ虐げられる自己を
悲劇の主人公のように憐れみ
また常に同じように憐れんでくれるような
いつも味方の神を想定して
健気に生きている自分のストーリーを語ります。
 
苦しめ虐げ偽り害をなす自分を
完璧に視野の外に置いて
片落ちを常態とする欠落の思想が自分信仰なのです。
 
実際には現実無視の見解に固まっているに過ぎません。
その立場を正当化するために
自己中心の解釈による聖書の乱用と悪用は
いともたやすく
招いた結果と経過をさらに自己中心に変質させて
悲惨な光景を世界に現出させてゆくのでしょう。
 
 
対等に話し合う姿勢を持たず
むしろそのような人同士の相互反応を逆に
無謬の神に背く行為と見なしているようで
悪魔の誘惑とでも思っているようで
 
自分の価値基準は神の価値基準だ
という独善によって
批判する他者を
簡単に加害者にしてしまうオートマチックなプロセスを
概観させてしまう経過と結果になっている・・
 
・・批判している他者である私も
     キリスト者なのですが・・
彼のような考え方は
味方でも逆らえば背教として容易に見捨てる
ということをも明らかにしているわけです。
・・いわば偽キリスト者捏造工場になって
「しまっている」思想の現状を省みることもない・・
 
加害者にされたほうは
痛くもない腹を探られ
食いたくもない餅を食わされることになります。
 
前にも書いたことですが
 
賛同と服従以外は背教で
批判すれば神の敵と教えることは
自己の保身を図ろうとする者によって
昔から利用されてきたことなのです。
 
 
それは
自分は全うな信仰者だ
というベースとなっている前提を改革しない限り
改まることはない曲解に始まっており
 
私も含めて信仰者が
安易な安心事に流れるお決まりの言説から
この地上では終末に至るまで
人の世界の無謬性などあり得ないことを知り
教理への盲目的服従を捨て
自らの的外れと盲目の常態を認め
内省による正直な祈りによってのみ
 
焼け跡の裸から出発する時々に
再生の恵みへの希望は
折々の溜め息と悲しみと安らぎを共有する
ということでしか表せないものだろうと思います。
 
 
(2015年01月29日、同日一部修正)
 
近況として・・
帯状疱疹の痛みは、痒み、ピリピリ、チクチク、から、
酷いときは針か釘で刺すような激痛のときを迎え
しばしば弱音や悲鳴と伴い一日が経過しますが、
このようなブログの記事を書くときに
少しく集中できると、その間、痛みが和らいでいるひとときがあります。
 
今の病気が苦痛でも・・特に不幸とは思いません。
無気力な不摂生の自業自得でもあるのでしょう。
何か書けるひとときの幸いを思いますが
・・特に幸福とは思いません。つまらない明け暮れです・・失礼・・