伝道
 
 
  (テモテへの第二の手紙、口語訳)
2:11
次の言葉は確実である。
「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、
また彼と共に生きるであろう。
2:12
もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。
もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。
2:13
たとい、わたしたちは不真実であっても、
彼は常に真実である。
彼は自分を偽ることが、できないのである」。
  (テモテ二2:11-13、新約聖書)
 
彼とはキリストのことです。
この中の
「彼は自分を偽ることが、できないのである」
は興味深い聖句です。
聖句ではないが「神は神を造ることが出来ない」
という逆説が
むしろ唯一無二の神の全能を示すように
「彼は自分を偽ることが、できないのである」は
キリストは救い主としての使命を偽ることが出来ない、
つまりキリストは自分を偽ることが出来ない、
ゆえにキリストは真実だということを示しています。
 
同じ章の中に次のような聖句もあります。
 
  (テモテへの第二の手紙、口語訳)
2:9
この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、
ついに鎖につながれるに至った。しかし、
神の言はつながれてはいない。
  (テモテ二2:9、新約聖書)
 
「わたし」は使徒パウロのことです。
人は鎖につながれても
神の言葉はつながれてはいない。
誰かによって伝道されるという意味ですが、
 
神の言葉としての聖書は
分かりやすかったり分かりにくかったり
不思議や謎や疑問があるけれど
それは
安易に人の脳ミソの中で固定されたり
誰かの解釈だけによって
人が「神の言葉」を確定したりすることなど出来ない
というように受け取ることもできるでしょう。
 
神の言葉は
時と場所と情況と人によって
様々に生きてくるものであって
誰も「これが神の言葉です」と言って
いつも同じように示すことなど出来ないということです。
 
人は神から言葉を与えられるのであって
人が神の言葉を与えるのではありません。
 
人から見れば人の世界において
言葉の絶対性などあり得ません。
 
人が絶対でありえないことをもって
神に対すると同様に
神の言葉に対しても恐れを持つべきです。
 
人は神の言葉の絶対性に生きることは出来ません。
言葉の絶対性は神秘つまり
神によって秘められているのです。
 
神聖が隠しているものを
人が勝手に解釈して確信し
神の代理のように語り
神のように振る舞おうとするような
神への恐れを知らぬ者を警戒してください。
 
 
上の聖句引用11-12節について
 
>もし、私たちが、彼とともに(十字架刑で)死んだのなら、
>彼とともに生きるようになる。
>もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。
>もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる(Ⅱテモテ2:8~12)と。
 
「彼とともに」を曲解して
キリストと同格に生きて支配者になる
というのは前に述べたルサンチマン(弱者の怨念)の
復讐のような思い上がりです。
人は息に過ぎません。
あくまでキリストが主であり私たちは従なのです。
 
「もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる」
こういう文言は
聖書を私物化してほしいままに振る舞いたい者によって
自分に従わなければキリストに否まれるという
極めて歪曲した意味に利用されやすいので注意が必要です。
 
 
>生れたときからの私という霊は、
>イエスと共に十字架刑で処刑されたものと認め、
>聖である霊と呼ばれる方によって、
>彼(イエス)とともに生きるのですね。私たち。
 
そうあるのが理想だというなら
理想だけ書いてもしようがないと思います。
おいしい宣伝の話だけになります。
 
そう生きているというなら
自分を特別扱いして神がかっている傲慢でしょう。
今までこういう言い方で
まかり通ってきたのかもしれませんが・・
 
また同じようなことを繰り返しているようです。
それで言い得たと思ってしまうことが不思議です。
 
 
  一見
 
 
伝道のために説教したつもりで
優しく穏やか表情で
一見おいしい甘い話を繰り返していると
 
もし心のうちに
過度の攻撃性や凶暴性を秘めているような人に
本人も知らないうちに
自らの攻撃性を正当化する理由として
神の正義を与えてしまう可能性があります。
 
そういう人は素直に
吸い取り紙が水を吸い込むように
速やかに一見分かりやすい教理を吸い込み
頷き頷き
たやすく信条を受け入れ
洗礼を受けるでしょう。
何故なら
そういう根拠を誰よりも欲しがっているからです。
自分でも人でもなく
神が自分の正当性と無謬性の不変の根拠になり
その根拠は耳に優しく調子合わせがとても容易だからです。
 
そうやって誕生したキリスト者は
いつも教理由来の聖書語を話していて
一見熱心に献身しているように見えるでしょう。
彼の言葉は教えられた通りに
耳に優しく心地よく聖書由来に聞こえるからです。
その熱心さで彼は
しばしば人に対して聖書語を振り回し
先輩風を吹かせて強引に
言うことを聞かせることを好むでしょう。
 
それに対して他の信徒は
教えられた通りの敬虔によって
聖書のことを言っているのだからと
美徳とされた沈黙によって批判を控えるでしょう。
 
彼は教会の中で
狙った通りの支配的存在となってゆくのです。
そしてまた
弟子のような人を探して
教えを摺り込んでゆくでしょう。
このような
教理を盾にした傲慢の系譜が
教理信仰を訂正不能にしてゆくような気がします。
 
 
(2015年01月31日)