思慮
 
 
聖霊を直接体験できると言い張る者は
とても便利に信仰を使って
困ったときには
自らの思慮の深みを覗く
 
そこにはいつも神の答えがあると信じている
神の都合を彼は知らないのに・・
 
思慮の深み、心の奥、情念の澱、
そこにあるのは聖なるものばかりではないのに・・
・・よほど自分の心は
奥まできれいだと思っているのだろう
 
受け入れる器であることは大切だが
器に神の答えがいつもあると信じて
求めた果てに答えがないなんて考えない
・・答えはあった・・でないといけないのである・・
 
かくしていつも何らかの答えを手に入れる
・・そうなるはずだから・・なのである・・
 
人として考えることを捨てて
その都度直接神から与えられる体験を信じているから
人として考える作業など必要ないと思っている
 
神のものは神に任せ
人のものは人が考えるなんて考えないのか
 
そうして答えは聖霊からのものと信じて
神格を与えてしまうと
誰に何と言われようとも訂正はしないし
そもそも異なる意見など聞こうともしない
 
無謬?の答えが次から次に
頭に心に積み重なってゆくのだろう
 
学習は経験の実績が担保するが
自分信仰は一方向以外の学習を拒否し続けるので
これまで生きてきたのは信仰?のおかげと
実績は強引に独りよがりに
彼にとってだけプラスに蓄積する
 
誰かが異を唱えると
それはそのまま
神に異を唱えることになり
その誰かは神の敵となり
排除しなければならなくなる
 
人間の世界では
その信仰は自己中心としか見えないし
自分信仰になるのだが
彼は神からもらったという確信を自動的に強めてゆく
 
その繰り返しで世を渡り
迫害でもないのに人の言うことを聞かない自分を
パフォームしてゆく経過と結果が
許容されるために
 
とても寡黙で文句を言わず
決して邪魔にならない役立たずとして
「敬虔?な信仰」を信仰の模範に仕立て上げて固持し
アピールし続けるしかなくなるのである
 
いつまでも変わることなく
反省しない人になる
 
聖霊が心に書きつけて一つになっている自分
という信仰であるらしい
 
彼が反省するわけがない
何故なら
反省するということは
聖霊は間違うこともあると認めることになるからだ
 
彼は不変の聖霊と一つになっているので
彼も不変でないといけない
だから
間違いも罪も認めない
という執念に生きるしかない人になる
 
 
それでも地球は回っている
・・これは観察の賜物だが・・
それでも神意は分かっている
・・これは殆ど憑依の因業である
 
 
(2015年02月26日)