弱さ・強さ
 
 
あらゆる邪悪から自分を除外する前提は
自分信仰を正当化し強める要素です。
 
>信仰にもいろいろな段階があり、
>信仰の強い人、知識で割り切っていける人もいれば、
>信仰の弱い人
>(信仰の知識で割り切れず、良心の呵責を覚える人)
>もいるわけですから、
>天の神、主が願っておられる在り方は、
>信仰の強い人は、信仰の弱い人を受け入れる在り方のようですね。
>批判しないで。
 
まず信仰の本質は知識ではありません。
信仰は知識で割り切るものではありません。
 
「自分の信仰は強いんだ」と言わんばかりの
信仰というものが分かっていない人の
分かったつもりになっている言説。
 
それゆえ人を軽く見てしまうのです。
 
>批判しないで。
 
倒置法の強意表現のようですが
批判に対して
「批判しないで。」と書いて
済ませられるものではありません。
だから人を軽く見ているということです。
 
こういうのを説得力のない文章と言います。
 
しかし自分信仰と傲慢は人を軽く見るので
これで済んだ、これで十分だ、と思うのでしょう。
 
>信仰の強い人:偶像に対して知識を持っている人、
>他の神々は本来存在しないものであるとの知識を持っていて、
 
このように簡単に
信仰の強さも、偶像に対する知識も、
言葉で書いて済ませられるものではありません。
偶像は心の中の偶像もありますし・・
 
信仰は常に
良い方向に成長することも
悪い方向に堕落することもあり得ます。
知識だけで避けられるものでもありません。
 
こういうことを考えると
彼の言説は
「偶像に対して自分は知識があるので心配ない」
という立場で語っているとしか思えません。
問題を共有する態度が見えません。
 
>お互いが相手を裁き合ったり、批判し合い、
>見下したりしないで、
>信仰の強い人は、弱い人に配慮して欲しいと
>思っていらっしゃるいうことのようですね。
 
正面からの批判に対して
一貫して
上から目線の見下す態度で臨んでいるのは誰でしょう。
 
「裁く」と「批判する」を同列に述べています。
この二つは違うのです。
前に似たような違いについて書きました。
人の言うことを聞かないから今になっても
こういう書き方をしてしまうのでしょう。
 
二つの記事引用部分を見ると彼は
「自分は受け入れる姿勢を持っているので
 批判されても批判しあったりはしません
 (無反応で当てつけだけするのが正しいと思っている)」
と思っているようです。
 
彼が言う「配慮」というものが恐ろしくなります。
どんな配慮をしているのだろう・・
・・前に書いた「愛をこめて」と同じような
偽善の酷い贈り物になりそうで・・
 
相変わらず彼は
自分を別格で
信仰において悟っていて心配のない教師と信じており、
上から見下して教えていると思います。
 
どこまでも上滑りなのは
憂慮すべき対象から自分を除外しているからです。
 
言葉だけ丁寧にしても
謙虚ということにはなりません。
 
 
  (ローマ人への手紙、第14章)
14:1
信仰の弱い者を受けいれなさい。
ただ、意見を批評するためであってはならない。
14:2
ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、
弱い人は野菜だけを食べる。
14:3
食べる者は食べない者を軽んじてはならず、
食べない者も食べる者をさばいてはならない。
神は彼を受けいれて下さったのであるから。
14:4
他人の僕をさばくあなたは、いったい、
何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、
その主人によるのである。しかし、
彼は立つようになる。
主は彼を立たせることができるからである。
  (ローマ14:1-4)
 
信仰が戒律や細かいこだわりに堕してゆくのを
憂慮して書かれた手紙でしょうか。
 
聖書は奥深いので
文脈、歴史的背景、文献的考察を考慮しても
なお読解は困難です。
 
それが
聖書解釈は提言として
一つの解釈例以上のものではないという根拠です。
 
また言葉はいつも同じものを人に与えるとは限りません。
相手により、相手の状況により、
与えるものは変わってきます。
 
聖書全体に言えることです。
だからどんな人にも意味があるとも言えるでしょう。
だから誰が使ってもリスクがあるとも言えるのです。
 
リスクを考えもしないで
神の言葉だから絶対で
一つの文章と解釈で伝えられるという信仰を
解釈信仰として批判しました。
解釈信仰は自分信仰と同じで危険な信仰のあり方です。
 
詳しい解釈は苦手なので控えますが、
この時代のこの情況では
こういう言い方を必要とした人が多かった
ということでしょう。
 
それを現代に持ってきて
そのまま当てはめて語るのは
さらに自分の解釈を付け足して当てつけて語るのは
人を軽く見て、言葉を軽く見て、
ゆえに信仰を軽く見ている証拠です。
 
 
書いた文章でもよく見れば
彼の自分信仰と傲慢の言説の中に
おかしなところを発見するのは難しくありません。
前に書いたように
彼の言説が彼の信仰を否定する反証になっています。
 
 
神の前に
平等で対等な立場で書くべきところを
 
神の前に
 
自分は分かっているから上の人
ゆえに信仰の強い人
 
だから教える
 
他者は分かっていない下の人もいるでしょう
ゆえに信仰の弱い人
 
だから受け入れてあげましょう
 
という前提で語る傲慢があり
 
ゆえに
乞食にくれた残飯のような
憐れみを施している自らの無礼に気付かず
 
批判せずに、
それよりよっぽど悪い侮辱を
平気で与えてしまう
 
殴られるより悪い優しさがある
 
 
(2015年02月27日、同日一部修正)