楽山のネトウヨ刷り込み
 
 『昭和風雲録』満田巌著
 2021年07月17日 楽山日記(LD)
 
 
過激な右翼思想家のA級戦犯を讃える記事を書いたことのある楽山が、ネトウヨぶりを表しています。楽山のような信頼のおけない人が書いても、誰かを目覚めさせることはないと思います。何故なら、楽山自身が、目覚めてもおらず、まともな活動もしていないからです。
 
著者の満田巌については、検索しても、はっきりと詳しく書かれているサイトがありません。定かではないようです。有名人かどうかも分かりません。昭和史上の右翼の暴発について、参照されることのある本のようです。
 
楽山は、説明や解説の出来ない人なので、著者について書かず、ただ、読んだぞ、聞け・・とでも言うのでしょうか。人間性と情感が乏しく、自己中だけが強いと、このような書き方になる、という見本になるでしょう。
 
しかし、自分の意見のまとまらない楽山は、引用だけといってもいいような記事になっています。自分で、理解しようとしない、理解できない、でも、書いて自己顕示したい、という楽山の特徴が表れています。それにしても、右寄りの一面的なことばかり書いて悦に入る呆れた心境です。
 
*概要
戦前戦中の考え方を知りたいと思ったので、昭和20年3月15日第26版(初版昭和15年)の本書を調べてみた。ざっと全体を眺めてみると、前半は第一次大戦後の日本は既得権益の確保を目論む米英から平和軍縮条約を押し付けられ、満州では排日運動が激化し、双方から圧迫されていたこと、
 
「戦前戦中の考え方を知りたい」と思って、読めば、知り得るのでしょうか。こういう偏った読書を宣伝したいのでしょうか。「目論む米英」「押し付けられ」「圧迫されて」・・当時の日本について、外国を悪者扱いしている楽山の、他罰的な右翼政治思想が表れています。
 
後半はそのような状況を転換させようとする者たちが昭和血盟団事件、五一五事件、神兵隊事件、相澤事件、二二六事件などを起こしたこと、最後は満州事変、国際連盟脱退などについて触れており、真珠湾攻撃前夜の様子がよくわかるものになっている。
 
右翼についての本を読んで、楽山は、ネトウヨならでは・・と言うべきか、気安く、昭和の流血事件について、あっさり「よくわかる」と書いています。ネズミのように、こそこそと立ち回り、嘘を吐く活動しか出来ない楽山は、右翼の怖い勢いだけであっても借りたい心境なのでしょうか。
 
*繰り返し
本書中、著者の考え方として特に興味深かったものは次の通りである(旧字は新字に変えた)。
 
どう興味深かったのでしょう。書けば、ネトウヨぶりが表れるので書かず、引用だけで、まともに見せかけようとしているのか、メモだけならば、公開する必要はないのです。引用だけの奇妙な刷り込みで、自尊過大を表す楽山です。
 
某代議士の如きは「軍備といふ如きものがあるから、戦争が起るのである。よろしく軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つであろう」とまで極言した。しかし、雨降る故に傘あり、傘ある故に雨が降るのではない。かくの如き非論理的な暴言が堂々として吐かれる程、当時の非戦的気運は圧倒的であった。
(『昭和風雲録』満田巌著、新紀元社、昭和20年、p.50)
 」
 
「軍備を全廃すべし。然る時戦争は跡を絶つ」という考えの愚かさを暗示したいようです。かといって、軍備を増強したら戦争はなくなるということでもありません。陳腐な揶揄を書いて、楽山には、建設的な意見は皆無なのです。
 
ワシントン条約、ロンドン条約等は、世界を去勢せんために米英現状維持国が企んだ平和攻撃の一手段であり、国際連盟、不戦条約等と密接に関連するものである。米英現状維持国は、一に平和を鼓舞し、他に軍縮を高唱して、自己の優越的地位の保持に全力を傾倒した。
(同上、p.50)
 」
 
これも、日本が米英に脅威と感じてられていた、また、日本は米英を脅威と感じていた、という歴史状況を書いています。今につながるものがないことを、楽山は書いて、何を伝えたいのでしょうか。俺は右翼だ、宗教だけでなく政治も分かってるんだ・・と言いたいのでしょうか。
 
思へば拙劣な外交であった。口に平和を唱へる所謂協調外交が、米英の現状維持を保証する以外の何ものであったか。その間、却って米英の軽侮を招き、更に支那満州の排日を激化したのみではなかったか。
(同上、p.75)
 」
 
協調外交が拙劣だと書いて、楽山は、自分ならば・・戦争、云々、と言いたいのか、またしても、他者の口を借りて、月並みな右翼への傾倒を表しているだけの感想文、しかも、そのやり方は、印象操作に過ぎません。読書して、書くたびに、読書できないことを表してしまう楽山です。
 
そのモットーとする所は、徹底的な平和主義といふより屈服主義であり、国際連盟に心酔し切つて軍縮に大童となり、大陸及び太平洋への発言権を自ら捨てて、米英の意を迎へるに汲汲とした。その間、貴族院、枢密院、政友会そのほか国民各層の不満にも拘らず、米英は、日本に於ける唯一の国際外交の権威なりとして幣原外交への賛辞を惜しまなかつた。
(同上、p.76)
 」
 
引用しているということは、楽山も、屈服主義と書いて自己満足でしょうか。結局、日本は、屈服せず、アジアを侵略して、アメリカと戦争して、自滅の道を進みましたが、楽山の言は、喧嘩に負けた子供が、相手への悪口で、腹いせをしている有り様にしかならないでしょう。
 
しかも責任を負えないものだから、引用だけというお粗末さは、責任のある言動の出来ないのに、見かけだけ評論家を気取って自己満足するという、今までの楽山を、やはり、そういう人だった・・と復習させる愚痴にしかならないのです。
 
こうしてみると平和外交とそれに対する批判は、昔も今もさほど変わらず同じことを繰り返しているようだ。人というものはそう簡単に変わるものではないだろうから、これも当然のことなのだろう。
 
右翼思想を書いて、「人というものはそう簡単に変わるものではない」と書いて、今を好ましくないかのように書きながら、「当然のこと」と書いています。右翼思想への賛同を表しながら、面倒はごめんだと保身をする筆致、楽山の、いつものボンヤリ言語です。
 
*将来
ところで、本書には連盟脱退についてこのように書いてある。
日本の連盟脱退こそは、連盟の本質が英米の自己擁護機関たる外何物でもないことを身を以て世界に明示したものであり、同時にまた白人旧世界体制に対する致命的な一撃であつた。条約違反或いは経済封鎖を以てする彼等の威嚇に抗して、ここに日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出したのである。これにつづいて独伊また連盟を脱退し、連盟の旧体制的構成は全く無内容と化し去つた。しかもこの寂寞の連盟にソ連が加入(昭和九年――一九三四年)し、その内実は旧国際連盟から国際人民戦線へと変貌した。一方に於ける日独伊、他方に於ける英米仏ソ――今や世界は瞭然たる二大勢力に分れ新旧闘争の決定的世界史転換の時代を迎えたのである。
(同上、pp.359-360)
 」
 
「連盟の本質が英米の自己擁護機関」「白人旧世界体制に対する致命的な一撃」「日本は世界新秩序への第一歩を敢然踏み出した」・・否定してないから戦争礼賛になります。「世界史転換の時代を迎えた」・・万歳三唱でもしたいのか・・って感じになっています。
 
最近は国連離れが加速しているようではあるし、もし「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」というのが本当であるならば、近未来において日本およびその他の国々が国連を脱退して世界新秩序建設への第一歩を踏み出すということもあるのだろうか。そんな想像をすると何やら恐ろしい気がする。
 
国連離れが加速しているのでしょうか。国連離れで検索してみると、トランプの名が出てくる程度です。さらに、もはや陳腐とさえ思える「歴史は繰り返す」「人の本質は変わらない」という漠然としたことを書いて、新秩序、想像、恐ろしい、などと書いて終わりです。
 
新秩序建設というのは、戦争が起こるかもしれない、ということでしょうか。そうならないために、楽山は、何か政治的言動をしたのでしょうか。不安を煽りたいだけでしょうか。主張の見えてこない思想の話、何を書いても、いつもと同じ、中身のない評論家気取りしか見えてきません。
 
何を書いても、まともな理路にならない楽山の、右翼的な印象操作と刷り込みです。しかも、はっきりした自分の意見を持たないから、偏った本の選択と引用によって、またしても、無責任ぶりが全開の楽山です。新しいものや独自のものが何もなく、読む価値のない記事だと思います。
 
批判しても何も答えない、なのに、手を変え品を変え、書いてきて、分かってると自己顕示してくる欺瞞、自己中の世界に陶酔しているだけの自己愛性パーソナリティでなければ、できない醜態であり、分かるべき身近なことさえ分かろうとしない楽山であります。
 
 
  青春のない楽山
 
 マイケル・シェンカーの青春論によるマイコン解除(『飛翔伝説』)
 2021年07月17日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
楽山には、恐らく、青春などなかったのではないかと思います。その復讐なのでしょうか。嘘と詭弁の煽動者になり、批判しても、なお、平気で書き続ける自己愛性人格障害を表して、本当に救われない者という病的人格のモデルとなっています。その腹いせでしょうか。
 
*マイケル・シェンカーの青春論
 本の整理をしていたら、マイケル・シェンカーの『飛翔伝説』が出てきた。中身を確かめてみると、こんなことが書いてある。
(画像省略)
「自分自身であれ!」「自分に嘘はつくな!」「自分の意思を貫き通せ!」「人は人、自分は自分だ!」という考え方は、ギタープレイだけに限定されず、人生全般に言えることであろうし、昔も今も変わらず共感する。
 
(ネットより)
マイケル・シェンカー
ミヒャエル・シェンカー
マイケル・シェンカー(ミヒャエル・シェンカー、Michael Schenker、1955年1月10日 - )は、ドイツ出身のハードロックのギタリスト。
 
自分を見失って、自分にも嘘を吐き、自分の身勝手な妄想を訂正不能に投げているのが楽山です。また出してきましたが、「人は人、自分は自分」と、自己中とは、全然、違います。楽山は、真逆の勘違い妄想を共感と呼んで、また嘘を吐いているのです。
 
*スピリチュアリズム
思うに、自分はこの流れで、「自分自身を信じよ」「自分の内なる神(良心)を信じよ」というスピリチュアリズム的な考え方にも共感し、これにつらなる幸福の科学にも傾倒したのだった。
 
楽山が信じて振り回しているのは、体質からの我執であります。それだけが、楽山の書いてくるものに表れてきたのです。楽山の言うスピリチュアリズムは、自らの霊能者気取りに過ぎず、それを勘違いした結果、病質的自己中に囚われています。
 
訂正不能の我執からの自己主張と詭弁と嘘が、楽山の恐ろしさであり、何度、批判しても、また、同じことを書いてくるのです。もはや、関わらないこと近づかないこと以外には、対処法がなくなっています。楽山から、良きものを受け取ることはありません。
 
*退会
でも幸福の科学は、当初は「内なる神を信じよ」と説いていたものの、途中からは次のような教えに変わってしまった。「大川隆法を信じよ。自身の小さな頭で考えたところで何がわかるか。大川隆法にはもっと深いお考えがあるのだ。大川隆法を信じてついてゆけ」云々。
 
誰も信頼していない楽山、信頼できる友のいない楽山、自分だけしか信じない楽山、丁寧語と詭弁で自分に引き寄せては、人をだまして疲れさせるだけの楽山です。楽山自身が、霊が分かるっぽいという自己中心のカルト的妄想に支配されています。疲れさせることで人格を破壊します。
 
自分は信者として、この教えに自分を合わせようとしたものの、結局はそれを徹底することはできず、「内なる神を信じよ」「自分自身を信じよ」という思想に戻ることになった。
 
楽山の信条は、内なる自分という神・絶対者を訂正不能に信じて、他者を、いっさい無視することです。無理解・無神経のまま、言ったら、言いっぱなし、無反省・無責任の、詭弁屋で嘘吐きですから、決して関わってはいけません。約2年間のペテン師の資料となっています。
 
ある意味、マイケル・シェンカーの青春論が心に染み付いていたおかげで、マインド・コントロールから抜け出すことができたということだろう。
 
楽山に染みついているのは、自己中だけです。自己愛性パーソナリティ障害からの自己絶対の自尊過大の、身勝手ぶりです。質問と疑問を浴びせれば、正体を表しますが、そこで、疲労し消耗して、人格を損なう恐れがあります。
 
*感謝
マイケル・シェンカー本人からしたら自身の発言が極東の一人の若者をカルトから救うことになるとは想像もしていなかったろうが、実際自分はそのようになったわけでマイケル・シェンカーには心から感謝したいと思う。
 
世辞~勘違い~嘘です。楽山は、誰にも感謝したことはないと思います。「極東の一人の若者」である楽山は、「カルトから救」われたのではなく、恐らく最初から、自分自身がカルト思想だけに染まって、訂正不能に慢心しているだけなのです。どうか、近づかないでください。
 
 
道なき道に溺れる

道なき道に溺れる
 
 
(2021年07月18日)
 
 
 
  彷彿
 
ワイパーが水滴と一緒に
視界を拭(ぬぐ)い去る向こうに
道はあるとアクセルを踏むから
車は暗がりを轢(ひ)いてゆく
 
ときに所々の街の灯(ひ)が
一瞬だけ信号に見えたりするから
ブレーキは早めの後ろから
大型トラックがぴったりついて来る
 
進めばよいのか止まればよいのか
後退でもすればよいのか
最初から出かけなければよい
飛ぶこと以外望まないのなら
 
空色の信号が浮かんでいる
そこでもチェックは厳重だ
拭い去れないものを火が乾かす
拒めば落ちてゆくことだけには限りがない
明るい人も大地も星も
水天彷彿(ほうふつ)みな落ち続けている
 
(90年代か)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング