思い込み
 
 
誰でも思い込みはあるのだが
信仰は思い込みを砕く方向に進むはずだ
 
しかし思い込みの強い人は
熱心な人が多いようだ
 
だから
思い込みを強くする方向に
進んでしまう熱心が自分信仰だ
 
自分信仰をさらに特徴づけるのは
自分信仰は思い込みがあることさえ認めないこと
それが事態をさらに悪くする
 
思い込みがあることを認めておれば
神を主語にした甘すぎることも具体的なことも
確定して得々と語ることはないはずだ
語れば自らの全能を誇ることになるから
 
時々に思い込みが砕かれることこそ
信仰生活なのであって
それが神を恐れる態度だ
 
思い込みを認めない結果
思い込みが自分になってしまうと
神と一体の自分
聖霊と一体の自分などと言いだして
 
神がかりの体験や
神がかりを信仰者の至高の境地のように語っては
神がかりの中心にいる自分の支配と管理を絶対化してゆく
 
かくして
相談にも教えるのにも語るのにも
最も適さない者が
ただの人格が
絶対的唯一神の代行者として
信仰の奥義を示すかのように
神秘を明らかにするという矛盾と罪を
人に広め摺り込むようになる
 
・・神が秘められたものを
どうして人が明らかに出来ようか・・
 
 
思い込みは人の業(わざ)であり
信仰は神の業である
 
思い込みと信仰は
本来逆なのである
 
間違えてはいけない
 
思い込むのが信仰ではない
 
思い込みの世界に埋没して
自分を限定するのが信仰ではない
 
いわれなき思い込みを勧める者に注意してほしい
あまりに見てきたかのような結論だけを繰り返し語り
悟って動かないふうを装う者に注意してほしい
 
それは知り得ない真理を
教理の名のもとに知っていると見せかける者だ
最初にわきまえるべき神の絶対をわきまえない者だ
 
 
思い込みを時々に自戒し
神が思い込みを砕いてくださることを
祈り願って止まないのが信仰である
 
 
(2015年03月24日、同日一部修正)