去年から批判対象としている人は相変わらず
自らの聖霊体験を絶対化して全能感に酔っているようです。
彼の言説の神と人に対する不備も齟齬もすでに明らかなのに
何とも不幸な人々を生んでゆく営みのようですが・・
今回の以下の批判対象は別の人です。
 
 
  史実と信仰
 
 
史実にこだわる信仰者がいて
 
はっきりさせないと気が済まないようで
例えば
創世記と進化論が対立したり
また
キリストの肉体を持った復活についても
いろいろ論争はあるようです。
 
私としては
そんな昔のことは分からないよ
・・で済ませていて
二千年前のことを史実として信じる信じないかで
今の自分がキリスト者であるかどうかが決まるなんて
どう考えてもおかしいと思っていますから
 
信仰は史実に依拠しない
 
と書いたことがあります。
 
 
しかしながら一方で
私たち人類の罪ということを考える上では
歴史に無関心ではいられませんから
信仰者に限らず
歴史について考えることは人として当然です。
 
そういうわけで信仰者も
歴史について語ることはあるでしょう。
 
ただしそれを信仰と結びつける場合には
かなり慎重にならなければなりません。
 
というのは
聖書はキリスト教の聖典であり
キリスト信仰の拠り所として書かれており
究極的に人の命と生き方を
神との関わりで述べている書物だからです。
 
史実を時系列で並べて書かれた歴史書とは異なり
また叙事詩のように文学として書かれたものとも異なり
また政治目的で書かれた書物とも異なるからです。
 
強いて言えば宗教目的で書かれた書物ということになります。
だから宗教的に歴史を解釈した部分が多いと思っています。
 
信仰者は
聖書の著者たちの霊感(インスピレーション)を
信仰に通じるものとして信頼することになるのですが
 
聖書と信仰によってすべての問題に答えられる
という聖書万能みたいな解説は
自分は聖書に通じているので神の意思を知っており
歴史を解き明かすことが出来る
という思い上がりから
自分信仰に至る道であると書いておきます。
 
聖書は読むとき必ず読む人によって解釈されており
しかも人は神ではないのだから
その解釈は常に不十分だという自覚が必要です。
 
私の言うことも一つの解釈ということになりますが
では納得すれば変わりうるかということでしょう。
 
私を納得させる意見があれば私は変わるでしょう。
宗教においては、なんというか・・
主張するために主張している人が多いような気がしています。
 
 
あるブログに書いてあった記事を引用します。
今日記事を書くモチーフになっています。
 
  引用(A)とします・・
「なぜ、そのような生ける神がこの世界を創造し、
 支配しておられるのに、
 この世界には不正や悪や不平等や争い、戦争があるのか
 とだれもが疑問を持ちますが、それは
 生ける神を畏れることのない私たちの罪によってもたらされ、
 生ける神の愛による支配、裁きの正しさの確かな証拠なのです。」
 
神の行為を人の側で正当化しよう、
あるいは人の側で正当化できる
という作者の意思が現れているようです。
 
神義(神の正しさ)に関わる記事です。
 
まず当然湧き上がってくる批判として
  引用(A)から
何故、悪や戦争があるのか・・について
「生ける神を畏れることのない私たちの罪によってもたらされ、
 生ける神の愛による支配、裁きの正しさの確かな証拠なのです。」
では何ゆえ災いが起こったとき神は介入しなかったのか、
何ゆえ多くの人々が死ぬというのに黙って見ておられるのか。
神義の疑問はなお残ります。
 
さらに、これではまるで
「災いが起こりました。これは人の罪によるものです。
 私たちが悪いんです。だから災いが起こる。
 だから神は正しい裁きを下し、人が死ぬのを許可している。
 ゆえに神は正しい。これが神の愛だ。・・???」
と言っているようなものです。
 
大きな時代の流れを思いながら
個々の人間感情を無視していると思います。
この説明で神の正しさを理解するのは無理です。
 
このような言説で
神義を説こうというのはあまりにも乱暴です。
戦争は人の罪
・・ということは信仰者でなくても分かるでしょうが
神義を語るにはあまりにも片落ちだと申しあげます。
 
もう一つの問題として述べたいのは
犯罪と戦争については
加害者と被害者が想定されるということです。
 
戦後処理として裁判も開かれるでしょう。
その裁判が正しいという話ではありません。
個々の事例によって被害と加害が必ず複雑に絡んでくるし
個々の悲劇に目を向けなければならないということです。
それを人の罪で一括して話し終えたつもりになるのは
宗教者の愚かさと言うしかありません。
 
神義の問題は
あくまで神の絶対正義の問題です。
人の手に負えるようなものではなく
分かりやすく説明できる問題ではありません。
神の正義を人が明らかにするのは不可能だと思います。
神義を語る口は、あたかも
神の正義を自分が守るかのような思い上がりです。
 
 
ここで参考までに
言説を語る上での注意点について述べたいと思います。
 
個別のことを一般化すること
と同様に
一般的なことを個別に当てはめること
これらは両方とも不備と言わねばなりません。
 
前者は
個別には成り立っても
一般的には当てはまらないことがあるから
ということであり
後者は
個別のことには複雑な個別の事情が絡むから
見方が別になるだろうということです。
 
特に後者の場合が分かりにくいかもしれませんが
言い換えると
個別のことが全体に包含されるとは限らない
ということで
全体について一般的に言えることというのは
個別の事象の共通項を想定して言っている。
ゆえに
個別のことに一般論を当てはめるのは
共通項だけで個別をも語ることになるので乱暴
ということになります。
 
 
参考までに
若い頃に私が時々通っていた教会の老牧師は説教で
「日本の敗戦さえも偶然ではなく
 神の意思と無関係ではないのです」
という言い方に留めていました。
(引用の内容は記憶なので不正確ですが)
ひょっとして
神の意思を自分が語ることに恐れを抱いていたのではないか
とも思えます。
 
もう一つ別のブログで
上の引用とは対立する恐らく非信仰者の言葉ですが
これも不正確ながら引用すると
  引用(B)
「旧約聖書の神は大量殺戮魔」
といったような意見がありました。
 
私も昔、旧約聖書を読んでいて
「なんでこんなに殺すかな・・」と思ったことがあります。
しかしこのとき私は
「大量殺戮魔は神ではなく人です、人の戦争ですから・・」
といったようなことを書いた覚えがあります。
 
 
引用(A)(B)など以上のようなことから
むしろ私は
 
神がいて戦争がおこる、災いが起こる、
悲劇が起こる、何故?という見方ではなく
 
視点を人間に移して
人は戦争を起こし悲劇を起こす。
その不条理から逆に人は
絶対の秩序である神を求めざるを得なかったのではないか
という見方に変わっていったような気がします。
 
私たちが見るべきは神ではなく人なのです。
 
そういう目で見ていくと
神の話を書き綴った大昔の何千年かの物語に
人類の悲願のようなものを感じないではおれないのです。
 
 
(2015年03月26日、同日一部修正)
今日は時間がかかりました・・