聖霊体験について
    別のブログのコメント欄より
 
 
前の「批判!しかし迷惑コメント」に書いたコメントの続きです。
相手○様の話は端折って「」でくくります。○様のレスから
 
「聖霊体験というのは、体験した人にしか分からない」
「体験した人は、それがあまりにも素晴らしいものなので、
 どうしても人に語りたくなる」「腹を立てる必要もない」
「「そうか、あなたは素晴らしい体験をしたんですね。
 よかったですね。でも、残念ながら私にはよく分からないです。」
 という感じでいいのでは」
「あえて、その体験者の体験談を批判する必要もない」
 
 
恐らく上の発言は○様だから出来るのだろうと思います。
聖三位の為さることは人には分からないということから聖霊体験や異言があるともないとも断定することは人には出来ません。聖なる体験が本物か偽物かを判断することも人にはなかなか出来ません。一般的に言えることは本物があれば必ず偽物が出てくるということです。
また体験すると、○様と違って、聖霊体験は何か特別の価値か資格が伴うものという見方がなされることが多いと思います。実際特別な体験ですから・・。そうすると体験のない人は?・・ということになり、ちょっと残念ですね、あるといいですね、がまかり通ってゆくのです。
2015/3/29(日) 午前 7:49 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
記事にも書いたことがありますが、「それが聖三位からだと何故わかる」という疑問と問いが無限に続く事柄です。また期待する心からはちょっとした気分変調を聖霊体験と断定している可能性があります。認識と記憶の段階であり得ると思います。それで聖霊に従って歩んでいるという人がいて、ならばその人は完璧で過ちを犯さないのかということになり、何よりその人の言説と態度が人から見ておかしいのに、過ちを認めない、認められない、という方向に行ってしまうでしょう。
ゆえに信仰も聖なる体験も、本物であれ偽物であれ、元々聖なる体験についての、人の側からの分別が必要だと思います。人が神からの聖を断定してしまうことの怖さは知るべきでしょう。
2015/3/29(日) 午前 7:50 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
 
「聖霊体験をしたから人として
 間違ったことをしないと考える必要もない」
「聖書の中にも何らかの神秘体験をした人が出てきますが、
 彼らが人間として完璧かというと決してそうではない。
 むしろ間違いだらけの欠点だらけの人物として描かれている」
「もちろん間違ってもいいと開き直るのもおかしいが、
 完璧な人間になる必要もないのではないのでは」
「本物かどうかを見分けることは誰にもできない」。
 
 
>聖霊体験をしたから人として間違ったことをしない
>と考える必要もないような気がします
 
聖霊体験者が間違うというのは聖書のどこですか・・ダビデとかのこと?・・聖書の話は神が呼べばリアルに答えてくれる話です。神が教えてくれるならこんなに考える必要もないのです。現代は沈黙する神が神義の主要な問題なのだから聖書の話では答えにならないと思いますが、では聖書に出てくる神に恵まれた人は自分の間違いに気づかされないでしょうか。
間違ってそのまま一生気づかず、正しいと思い続けるなら・・「よかったですね」とか、そういう人もいる程度のことで済ませていいのでしょうか。その体験は聖霊だから絶対化を当然とする体験なのです。したがって聖霊と一つになってとかいう言い方は、自分の敵は神の敵といったような、自己絶対化に最もつながりやすいから問題にしています。
2015/3/29(日) 午前 11:36 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
>本物かどうかを見分けることは誰にもできません
 
はい。私は「なかなか(できない)」と書きました。つまり分からないから様子を見るでは済まされない問題だと思っています。経過と結果によって、人には知るべきことがあります。
本物であれ偽物であれ聖霊体験などの直接の聖なる体験があったと言い、それに基づいて人に語り広めようとする者は、個人的体験の一般化ですから、それだけの重い責任があるのだから、現実を考慮しているか、現実に通用しているか、言っていることに齟齬はないか、自己正当化が現れていないか、等々、真偽の判断は抜きにしても問うべきことはいっぱいあります。それでも反応がなくて同じことを繰り返すなら、衝撃を与え続けるだけになるでしょう。過ちの可能性さえも自覚していないのか、ということが問われるのは当然のことだと思います。
記事にするかもしれませんが、一応この辺で。
2015/3/29(日) 午前 11:36 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
 
(2015年03月29日)