聖霊体験(3)
他のブログのコメントより・・続き
相手のコメントも全部載せることにしました。
※ コメントの中の「相手」は批判対象ですが、
上に書いた「相手」つまり議論の相手は批判対象とは別の人です。
トラコミュ?というのを私はよく知らないので、なんとも言えませんが、ブログとは違って影響力が大きいのでしょうか?
仮にSTさんの批判対象となっている人が10人の信徒に何らかの影響を与えているとして、STさんの批判によってその10人が自らの間違いに気づいて改めるということを目指しておられるのでしょうか?しかし、繰り返しにになりますが、その10人の方が正しいという可能性もあるので、放っておいた方がよいということもあります。
>優しくて辛辣なことを言わないクリスチャンが
>人間として一対一の対等な議論を避けてきたから
>今日の事態を招いたという苛立ちがあります。
このあたりはよく分かります。私も時々そういう苛立ちを覚えます。しかし、辛辣なことを言えば対等な議論になるとも思えません。むしろ感情的になってまともな議論ができなくなる可能性の方が大きいと思います。もちろん無難な社交辞令は時間の無駄ですが、攻撃的な言葉でお互いに傷つけ合うのもエネルギーの無駄遣いという気がします。少なくとも私はそういう議論はしたくありません。
2015/3/30(月) 午前 2:02 <<コメントに返信する
>聖書から神秘体験者でも間違いを犯すことがある例
>聖書の神秘体験そのものがフィクションの可能性
この二つは確かに両立しませんね。鋭いご指摘です。もう少し考えてみます。
何らかの神秘体験があることは私も否定しませんが、それが本物かどうかは誰にも分からない。オウム真理教みたいにLSDによる幻覚を神秘体験と呼んでいる場合もあります。サリン事件で人が死んでから考えるのは確かに遅すぎます。だから、宗教は批判されることが必要だと思います。しかし、STさんの批判対象となっている人はそんなに危険な人物なのでしょうか?少しでも危険性があるなら、その芽を摘んでおくことも必要ですが、STさんのご批判を無視して、自分の考えを述べているだけなら、そんな危険性はないと思いますが・・・?
2015/3/30(月) 午前 2:21 <<コメントに返信する
>10人が自らの間違いに気づいて改める
>ということを目指しておられるのでしょうか?
それはほぼ諦めています。ブログ村のトラコミュ・・ログインしないで見れないかな・・
トラコミュには大まかなテーマによって毎日記事が寄せられます。宗教関連の記事で相手の記事が毎日載ってくるのですが、最初見たときから、これがキリスト教だと思われたくないという一念から、それまで批判もなくだら~と並んでいた相手の記事に、これがキリスト教だとは思えないという対立軸を挿んでゆくしかないと判断したので批判を続けています。私の批判が正しいとは限らないのは承知ですから、反対している奴がいるぞ・・一枚岩じゃないぞ・・ということを示すためにやっていると言ってもいいでしょう。
2015/3/30(月) 午前 11:23 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
>その10人の方が正しいという可能性もあるので、
>放っておいた方がよいということもあります
(正しいという)可能性を考えて放っておいたほうがよいといってしまうと、あらゆる思想と政治についても放っておいたほうがよいということになりはしませんか。自分の、相手が間違っているという思いをそこで抑制すべきでしょうか。乱暴だと思います。
2015/3/30(月) 午前 11:23 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
>攻撃的な言葉でお互いに傷つけ合うのもエネルギーの無駄遣いという気がします
攻撃性を何よりも忌み嫌っておられるようですが、攻撃性がないならば安心なさるのでしょうか。前に批判した人も今批判している人も当てつけ程度で攻撃性はなかったし今もないのです。
むしろ私としては攻撃性がないことを問題にしています。
真っ向から反対意見を述べているのですから驚いて怒って攻撃というか反撃があるのが正常だと思います。それが傷つけるような悪口雑言であっても反撃がないよりは双方向になる分だけ私にはマシなのです。言葉だけ嘘くさく丁寧で穏やかというのが私には最も残酷に響いてきて、いかなる反撃よりも私をズタズタにします。だからそういうときは丁寧な言葉と文脈と筆致から、出来るだけですが、本音を推測しようとします。それは当たっていないかもしれないが、衝撃になってくれという目的があるのかもしれません。
2015/3/30(月) 午前 11:24 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
>批判を無視して、自分の考えを述べているだけなら、
>そんな危険性はないと思いますが・・・?
私は別の感じ方をしているようです。反撃せずに耐え忍ぶということは、その忍耐力がどこから来るのかと考えてみると、反撃以上の絶対否定の精神だと思います。信仰者の場合そうさせている原動力は神、そして神の敵が相手だという意識が働いていると推測します。そこからはとんでもない偽善とかが想像されてしまうのです。私が今ここで反論しているのとは全然違う世界に生きている人・・これは、育ってゆく人々のことを考えると恐ろしい種を蒔いているような気がしてならないので、相手を傷つけたとしても傷は距離が離れれば治るかもしれませんが、そういう種に関しては放置してよいという判断は、即ち危険の種を放置することになると考えているような気がします。相手を傷つけたいとは思わないが、傷よりも怖いことを推測しています。それが宗教の怖さだと思っています。人間関係ではなくなるのです。放置せずにどうするかは上の攻撃性の問題につながるでしょう。
2015/3/30(月) 午前 11:26 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
また記事にしようと思いますが、○様のコメントもHN抜いて全文載せようと思います。端折るとどうもコメントのバランスが悪いような気がするので・・
2015/3/30(月) 午前 11:29 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
(2015年03月30日、同日一部修正)
この後のレスを要約すると・・
(正しいという)可能性については、
政治については直接の影響があるので、正しい可能性があるから放置というのは成り立たないというレスあり。私としては、政治も種を蒔いているという場合もあると思いますが、ほぼ同意。他の問題としては個性による見方の違いだろうということになりました。
トラコミュ?というのを私はよく知らないので、なんとも言えませんが、ブログとは違って影響力が大きいのでしょうか?
仮にSTさんの批判対象となっている人が10人の信徒に何らかの影響を与えているとして、STさんの批判によってその10人が自らの間違いに気づいて改めるということを目指しておられるのでしょうか?しかし、繰り返しにになりますが、その10人の方が正しいという可能性もあるので、放っておいた方がよいということもあります。
>優しくて辛辣なことを言わないクリスチャンが
>人間として一対一の対等な議論を避けてきたから
>今日の事態を招いたという苛立ちがあります。
このあたりはよく分かります。私も時々そういう苛立ちを覚えます。しかし、辛辣なことを言えば対等な議論になるとも思えません。むしろ感情的になってまともな議論ができなくなる可能性の方が大きいと思います。もちろん無難な社交辞令は時間の無駄ですが、攻撃的な言葉でお互いに傷つけ合うのもエネルギーの無駄遣いという気がします。少なくとも私はそういう議論はしたくありません。
2015/3/30(月) 午前 2:02 <<コメントに返信する
>聖書から神秘体験者でも間違いを犯すことがある例
>聖書の神秘体験そのものがフィクションの可能性
この二つは確かに両立しませんね。鋭いご指摘です。もう少し考えてみます。
何らかの神秘体験があることは私も否定しませんが、それが本物かどうかは誰にも分からない。オウム真理教みたいにLSDによる幻覚を神秘体験と呼んでいる場合もあります。サリン事件で人が死んでから考えるのは確かに遅すぎます。だから、宗教は批判されることが必要だと思います。しかし、STさんの批判対象となっている人はそんなに危険な人物なのでしょうか?少しでも危険性があるなら、その芽を摘んでおくことも必要ですが、STさんのご批判を無視して、自分の考えを述べているだけなら、そんな危険性はないと思いますが・・・?
2015/3/30(月) 午前 2:21 <<コメントに返信する
>10人が自らの間違いに気づいて改める
>ということを目指しておられるのでしょうか?
それはほぼ諦めています。ブログ村のトラコミュ・・ログインしないで見れないかな・・
トラコミュには大まかなテーマによって毎日記事が寄せられます。宗教関連の記事で相手の記事が毎日載ってくるのですが、最初見たときから、これがキリスト教だと思われたくないという一念から、それまで批判もなくだら~と並んでいた相手の記事に、これがキリスト教だとは思えないという対立軸を挿んでゆくしかないと判断したので批判を続けています。私の批判が正しいとは限らないのは承知ですから、反対している奴がいるぞ・・一枚岩じゃないぞ・・ということを示すためにやっていると言ってもいいでしょう。
2015/3/30(月) 午前 11:23 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
>その10人の方が正しいという可能性もあるので、
>放っておいた方がよいということもあります
(正しいという)可能性を考えて放っておいたほうがよいといってしまうと、あらゆる思想と政治についても放っておいたほうがよいということになりはしませんか。自分の、相手が間違っているという思いをそこで抑制すべきでしょうか。乱暴だと思います。
2015/3/30(月) 午前 11:23 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
>攻撃的な言葉でお互いに傷つけ合うのもエネルギーの無駄遣いという気がします
攻撃性を何よりも忌み嫌っておられるようですが、攻撃性がないならば安心なさるのでしょうか。前に批判した人も今批判している人も当てつけ程度で攻撃性はなかったし今もないのです。
むしろ私としては攻撃性がないことを問題にしています。
真っ向から反対意見を述べているのですから驚いて怒って攻撃というか反撃があるのが正常だと思います。それが傷つけるような悪口雑言であっても反撃がないよりは双方向になる分だけ私にはマシなのです。言葉だけ嘘くさく丁寧で穏やかというのが私には最も残酷に響いてきて、いかなる反撃よりも私をズタズタにします。だからそういうときは丁寧な言葉と文脈と筆致から、出来るだけですが、本音を推測しようとします。それは当たっていないかもしれないが、衝撃になってくれという目的があるのかもしれません。
2015/3/30(月) 午前 11:24 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
>批判を無視して、自分の考えを述べているだけなら、
>そんな危険性はないと思いますが・・・?
私は別の感じ方をしているようです。反撃せずに耐え忍ぶということは、その忍耐力がどこから来るのかと考えてみると、反撃以上の絶対否定の精神だと思います。信仰者の場合そうさせている原動力は神、そして神の敵が相手だという意識が働いていると推測します。そこからはとんでもない偽善とかが想像されてしまうのです。私が今ここで反論しているのとは全然違う世界に生きている人・・これは、育ってゆく人々のことを考えると恐ろしい種を蒔いているような気がしてならないので、相手を傷つけたとしても傷は距離が離れれば治るかもしれませんが、そういう種に関しては放置してよいという判断は、即ち危険の種を放置することになると考えているような気がします。相手を傷つけたいとは思わないが、傷よりも怖いことを推測しています。それが宗教の怖さだと思っています。人間関係ではなくなるのです。放置せずにどうするかは上の攻撃性の問題につながるでしょう。
2015/3/30(月) 午前 11:26 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
また記事にしようと思いますが、○様のコメントもHN抜いて全文載せようと思います。端折るとどうもコメントのバランスが悪いような気がするので・・
2015/3/30(月) 午前 11:29 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
(2015年03月30日、同日一部修正)
この後のレスを要約すると・・
(正しいという)可能性については、
政治については直接の影響があるので、正しい可能性があるから放置というのは成り立たないというレスあり。私としては、政治も種を蒔いているという場合もあると思いますが、ほぼ同意。他の問題としては個性による見方の違いだろうということになりました。
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