文章検討
 
 
少し彼の文章の書き方について検討してみます。
何ゆえ読むたびに苛々するのだろうと思って
前から気になっていたことです。
彼の少し前の記事を引用します。
 
「聖である霊と呼ばれる方に覆われ、満たされて、
 この方によって心に道を、御父の御思いを書き付けていただき、
 その御思いのとおりに歩む者にしていただけるのだそうです。」
 
「・・にしていただける」
いつと書いていない。
現在そうであるということを言っているのでしょうか。
将来そうなると言っているのでしょうか。
もし将来なら
洗礼を受けたらという話なのでしょうか。
生きている間のことなのでしょうか。
終末か死後のことなのでしょうか。
 
今そうだということなら今罪を犯すことはない
ということになり、自己正当化になります。
生きている間にそうなる、ということでも
時期が先延ばしになるだけで同じことです。
 
終末のことなら、誰も経験していない、
いつか分からないことを言って何になるのでしょう。
 
いずれにしてもキリスト信仰からは
かけ離れていると思います。
 
時期をはっきり示せば、かけ離れ、
だから曖昧で済ませている。
 
実際は時期など誰にも示せないのだから
おいしそうなだけの話の書き方は避けるものです。
こういうことを福音として語れば詐欺に近いのです。
 
いくら「・・いただけるのだそうです」と書いても
空っぽの約束をしているだけになります。
 
はっきり言えないことを
はっきり言えないことだという説明もなしに
はっきり言ったように見せかけているから
ごまかしになってしまい
とても読んで気持ちの悪いものになってしまう。
 
もし気持ちのいい人がいたら
それは既に彼に染まって隷属しているか
彼の見せかけにまんまと騙されている証拠です。
見るたびごとに上に書いたことを考慮して
冷静に見てほしいと思います。
 
「・・のだそうです」
なぜ伝聞表現で書くのでしょう。
誰から聞いたとは書いていない。
いちいち先輩に聞いたわけではないでしょうから
神から聞いたと言えば預言者ということになって
差しさわりがあるので
曖昧に書いて、
さらに伝聞表現にすることで客観的に見せかけ
「・・のだ」と書くより
優しい文章に見せかけようとしているようです。
 
空しい責任回避だと思います。
実際、補足も弁明もしていません。
受け入れてもらえることだけを狙っている書き方で
モヤッと良さそうな文章を書けばいいだろう
という気持ちしか持っていない証拠でしょう。
 
文章の工夫がいちいち嫌味と言ってよく
謙虚でもなく改める方向もなく
書き続けて恥じることがないのならば
卑劣としか言いようがないでしょう。
 
聖なる信仰を夜店の安物にしてしまう行為です。
 
こういう人になりたいか、また、
こういう人から教えを受けたいか・・という問題なのです。
 
文章の未熟さを自覚しておれば人を無視しないはずです。
心貧しさということなら益々人の言うことを聞くはずです。
そう言った問題なら私はとやかく言ったりしません。
そうではないのです。
修正する気もなく謙虚さを持たない書き方を
邪悪な精神の問題として批判しているのです。
これが思い込み信仰の邪悪さと卑怯さにつながるからです。
 
聖霊と一つ、神の思いの通りに、などはとんでもないことで
継続的に改めようともしない邪悪さを呈しています。
 
だから私は
彼の言説が彼の言説に反証する
と言ってきたのです。
 
言説が信仰そのものを薄汚いものにしているので
読んだ信仰者にとって迷惑だろうということ・・。
キリスト信仰にとってプラスの要素がない。
 
フォントを大きくしたり文章を長くしたりしても
それだけ大きく強く伝わるわけではありません。
 
何故こういう言説に
忠告も注意もせずに放置しているのでしょう。
邪悪が全然変わらない。
 
 
(邪悪はお前だろ・・なんて呟きでもしたら
 何だか、えっへっへとか、ふん、とか
 そちらが嘲笑っている姿を
 思い浮かべてしまうことになるでしょう・・)
 
 
(2015年03月31日、同日一部修正)