あの方の憐れみ・・
 
 「祝福のそよぎ」批判(22)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/MYBLOG/yblog.html
 あの方の憐れみ深い思いが、私たちの心にも来るのだそうです。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16741342.html
 
 
彼が信仰と信じているものを受け取ると
今までの昨日までの経緯をきれいさっぱり忘れて
自分の罪も悪も無かったことに出来る
という立ち直り方が出来るようになるでしょう。
 
ということは
どんな罪を犯そうとも
次の日には無罪になっているというわけです。
というより
彼がやったことはすべて正しく
罪にならない仕組みのようだから
罪を自覚することもないのでしょう。
 
例えば昨日誰かを傷つけたとしても
今日はまたヘラヘラ笑って
何ごともなかったように
告白もなく
自分の神を賛美できるというふうに・・
 
しかもそういう笑いをも
すべて神が与えてくださると
彼は言っています。
 
ここまで無反省の
彼が信仰と名付けている境地に
立ちたい人がいるのでしょうか。
 
しかも、その上で、
彼は「神の憐れみ」を説こうとしているのです。
 
悪い記憶をすべて削除して
なかったものにして
偽善と無視と超忘却の超常信仰を唱えている・・
 
 
>自分の中からは、
>憐れみの心のかけらも出て来ないものであることを知って
  ・・・・・・・
>私の心にも、憐れみ深い思いが来るようになるのだそうです。
 
この「・・・・」の中に、彼はいつものことですが、
非常に単純な理性による信仰の仕組みと筋書きを書いています。
 
 筋書きは同じですが、
 また詭弁を弄しているので追ってみると
 
 生まれたときからの霊は罪を犯すような
 ぼろくその悪だからという認識で
 キリストの十字架とともに処刑され
 
>イエスの十字架刑での処刑を私の処刑として下さる
>との提案を受け入れて、
>イエスの十字架刑での処刑に私も合わせていただき
 
 キリストの十字架は
 人の罪が赦されるためでした。
 赦されるべき罪は「もうないよ。大安心」
 となるためではなかったはずです。
 
 あとは聖霊が来て
 神の思いを自分の心に書きしるし
 
>私の心にも、憐れみ深い思いが来るようになるのだそうです。
 
 に至ります。贖罪&憐れみ製造工場の工程・・
 
 神に彼が憐れまれる
 という意味に勘違いしないでください・・
 
 記事タイトルですが
 
>あの方の憐れみ深い思いが、私たちの心にも来るのだそうです。
 
 と考え合わせると
 
 神の憐れみ深い思いと同じような
 憐れみ深い思いが自分に来るので
 神が憐れむのと同じように
 自分が人を憐れむようになる
 と彼は言っていると思います。
 
 彼は、なおも
 自分の憐れみは神の憐れみだと言いたいようです。
 
 さらに、彼の神以外からは
 憐れみは生まれないと言っているようです。
 ・・自分に従え
     と言うことでしょう・・
 
この彼の憐れみが本当の神の憐れみになるでしょうか。
彼に憐れまれるのだけは御免です。
 
 
彼の信仰は
数行の文章によって表すことが出来るようです。
多くの人が信仰について考えるのとは全く別の世界です。
 
彼は毎日のように
彼が信仰の仕組みとして書いた文章の
筋書きをなぞって、うん、うん、
よし、よし、・・と確認すれば
すべてのことはそこから導き出され
そのとき即、
神の御心として絶対化することが出来て
誰の言うことも聞かなくていい、
聞いたことも起きたことも忘れていい、
何故なら、それらは無かったのだから
・・ということですから
   大安心もするわけです・・
 
 
>互いに心の中で悪をたくらまないことを喜ばれる方のようです
>(ゼカリヤ7:5~11)。
 
記事の前半に示され
一部引用されているゼカリヤ書ですが、
 
 (ゼカリヤ書、口語訳)
7:9
「万軍の主はこう仰せられる、真実のさばきを行い、
互に相いつくしみ、相あわれみ、
7:10
やもめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を、
しえたげてはならない。
互に人を害することを、心に図ってはならない」。
7:11
ところが、彼らは聞くことを拒み、肩をそびやかし、
耳を鈍くして聞きいれず、
7:12
その心を金剛石のようにして、
万軍の主がそのみたまにより、さきの預言者によって伝えられた、
律法と言葉とに聞き従わなかった。それゆえ、
大いなる怒りが、万軍の主から出て、彼らに臨んだのである。
7:13
「わたしが呼ばわったけれども、彼らは聞こうとしなかった。
そのとおりに、彼らが呼ばわっても、わたしは聞かない」
と万軍の主は仰せられる。
7:14
「わたしは、つむじ風をもって、
彼らを未知のもろもろの国民の中に散らした。
こうして彼らが去った後、
この地は荒れて行き来する者もなく、
この麗しい地は荒れ地となったのである」。
 (ゼカリヤ7:12-14、旧約聖書)
 
彼は12~14節を示していないようですが、
 
5~8節までは問いただし戒める言葉(省略)、
9節と10節は憐れみについて、
11~14節はイスラエルの反逆と
神の怒りと懲らしめが書いてあります。
 
このように聖書には
民を叱りつける恐るべき神が書かれ伝えられています。
 
彼は、都合のいい、気持ちのいい、
そういうところしか示さないようです。
あちこち聖書の箇所を示すけれど
説明は自分の気に入ったところだけのようです。
 
しかし彼は
前回、恐ろしい裁きの
イザヤ59章の強烈な聖句を載せています。
 
恐らく彼の敵=神の敵と見なした相手を
呪うためでしょう。
こういうところも彼は読んでいるわけですが
・・憂さ晴らしのための聖句引用か・・
 
聖書の使い方においても
神を恐れないようです。
 
 
(2015年05月27日、同日一部修正)
 
「大安心」は彼の記事の文言です。
彼はこう書けば安らぎに導かれるとでも思ったのでしょう。
しかし現実を見ない安心事はただ空疎なだけで、
その基盤にあるものを今まで考えてきて
何も変わっていないと言うしかありません。
 
私が「大安心」を見たのがいつの記事だったか・・
何度も書いてきた言葉なので分からなくなって、
彼のブログで「大安心」を内容検索したら
やはり6つの記事がヒットしました。
私が批判を書き始めてからは恐らく
2014年12月24日の
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16383110.html
だけのようです。
 
最近は書かなくなっているようですが
撤回も訂正もしてはいません。
彼にとっては
彼が書いたことは聖霊を通じて神の言葉になっている
という信念があるような気がしています。
・・これはこれで恐ろしいこと・・