イエスは、・・
 
 「祝福のそよぎ」批判(25)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/MYBLOG/yblog.html
 イエスは、かわいそうに思って、
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16747668.html
 
 
>町を、国を、その背きとかたくなさのゆえに打たれることがあるけれど、
>同時に、回復の約束もしていて下さる方
>(エレミヤ49:6、39。
 
背けば懲らしめるが
従えば救う望みを残す
という神の裁きは聖書によく見られます。
 
彼は彼の
人間をぼろくそに言った後で
救いのメッセージらしきものを書く
という書き方を正当化したいのでしょうか。
神を見習っているつもりなのでしょうか。
・・神を見習えると思うことが怖い・・
 
彼のように聖書の解釈からの
訂正不能の筋書きにこだわるだけになると
また聖書のあちこちから
都合の良い材料を持ち出してきて
人も現実も見ない、考えないで、
神ではなく自説に縋りつくしかなくなるのでしょう。
・・世の中、そんなに単純じゃない
    とは誰でも思うことでしょう・・
 
 
マタイ20:34、ルカ7:13
キリストの奇跡物語です。
否定はしませんが、
今でも分かりやすく起こればキリスト教は
彼が今まで言ってきたような
とても単純な宗教になっていたでしょう。
 
そうなってはいないところに
何故?・・という問いを持ち得ないならば
単純でない信仰を、
強引に単純にしてしまうことになるでしょう。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
10:1
そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、
汚れた霊を追い出し、
あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。
 (マタイ書10:1、新約聖書)
 
使徒を遣わすときのキリストの言葉ですが
ここを引用して彼は何を言いたいのでしょうか。
二千年前と同じことが起こっているとでも言いたいのでしょうか。
 
それとも自分のことを
使徒と同じで
権威が与えられていると言いたいのでしょうか。
 
 
>「かわいそうに思って」病気を癒して下さったイエス
 
神もキリストも彼にかかると
会話や台詞で心を表せるような
コミックのヒーローのようなものになって
彼にとって都合の良い味方になってしまうようです。
 
キリストの奇跡が聖書に載っていること、
キリストが今は目に見える御方としておられないこと、
こういうことに言及しないで
良さそうなことばかり書くのも彼の特徴ではありますが・・
 
全く起こらないとは言いませんが、
奇跡が今も
起こるとか、起こっているとか、起こるだろうとか、
大昔と同じように考え言い広めることが伝道だという考え方は
信仰の最も大切なことを見失わせて
キリスト教を奇跡信仰の御利益宗教にしてしまう
ということが分からないのでしょうか。
 
 
最後に彼はまたいつもの
聖霊が同じ思いを置いて働かせる
という自説を繰り返してから
 
>ありとあらゆる病をいやして下さいますように。
>今日も。
 
この祈りのような結びは
いつもながら
目の前に神も聖霊もいる
という彼が信仰と呼ぶ信念の頑強さによって
神と聖霊を
彼のフィクションの登場人物にしてしまっています。
・・現実離れした空しい響きです・・
 
私たちは宗教ホラーや魔術を求めるわけではないのだから
肉体や物に起こる奇跡よりも
比べものにならないくらい偉大な
魂に起こる奇跡を求め待ち望みます。
 
 
(2015年05月30日、同日一部修正)
 
彼のお仲間が彼の記事を転載しているようです。
力攻めに来るかどうか見ています。
例えば本人も含めて10人が同じ記事をトラコミュに投稿すれば
合計100個の同じ記事がトラコミュに並ぶことになります。
私は一人で書き続けます。以上。