天の神、・・
 
 「祝福のそよぎ」批判(26)
 
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 天の神、主をわが力として
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16750249.html
 
 
お仲間の記事転載を得て
意気が揚がったのか、今日の彼は長めに
・・今までと同じことを書いています。
ひとかけらの成長を含めて
いかなる変化もあってはならない
というのが彼の主張のようですが
 
それをひとつひとつ否定してゆくのが
私の役割になっている日々のようです。
 
 
>高ぶりのせい自分の力により頼む者になり、今は、
>この方のもとから迷い出てしまって、栄光を失い、
>この身体も土の器のようになり、
 
「土の器」というのは
信仰を受ける器として
神に対する人を表す比喩として使われる言葉ですが
彼には
彼と同じ信仰に目覚める前の単なる
ぼろくそ人間の表現として使われているようです。
 
そしていつものように
彼の救いの筋書きを繰り返しています。
わずか数行で表せる彼の信仰です。
抜き書きして書いてみますと・・
 
>十字架刑で処刑
>罪の処刑が終っているものと手続き
>罪の処罰を終えた上で
>私たち一人ひとりに
>御思いを置いて下さって、
>私たちが、私たち一人ひとりの部分において、
>主と思いを一つにしながら生きるようにして下さる
 
このように・・
 
彼は前には
「聖霊(神)と一つ思い」と書いていましたが
最近になって上のように
「一人ひとりの部分において神と思いを一つにして」
と書いています。
彼は自分の言説に合うように
神と聖霊の言動を作り変えたようです。
人が聖三位を作り変える・・
彼の夢想の登場人物に過ぎないから出来ることでしょう。
・・部分という曖昧な言葉を添える言い逃れ・・
 
そもそも聖三位の言動を知り得る
という考えからして間違っているのです。
 
 
>風は思いのままに吹き、私たちはその音を聞くけれども、
>それがどこから来てどこへ行くかしらないように、
>聖である霊と呼ばれる方によって新しく生まれる者も、
>そのようなのだそうです(ヨハネ3:8)。
 
どこから来てどこへ行くら知らない
という未知で溢れる可能性に満ちた信仰の世界なのですが
 
どこから来てどこへ行くか知らない
と言いながら
それを上のように数行の筋書きにして
繰り返しているのが彼なのです。
彼には何の疑問も謎もありません。
すべては事実系列として既知で固定している
という彼の立場です。
信仰の奥義も神秘もあったものではないのが彼です。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
3:5
イエスは答えられた、
「よくよくあなたに言っておく。
だれでも、水と霊とから生れなければ、
神の国にはいることはできない。
3:6
肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
3:7
あなたがたは新しく生れなければならないと、
わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
3:8
風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、
どこへ行くかは知らない。
霊から生れる者もみな、それと同じである」。
 (ヨハネ書3:5-8、新約聖書)
 
それまでのように
この世に合わせた生き方ではなく
生まれ変わったように新しくなるのだと
聖書は教えていますが、
 
どこから来てどこへ行くか知らない
という未知で溢れる可能性に満ちた信仰の世界なのですが
 
彼の成長は信仰を得た時点で止まっている
ということを彼の記事は表してきました。
 
どのような変化や成長があってもおかしくない
という信仰の可能性は
彼には最も忌み嫌うものとして神の敵になってしまうのです。
 
>主イエスと共によみがえらせてくださり、共に、
>天の神、主の栄光の御座の前に立たせて下さるのだそうですから。
 
このように人が神の御座に立つ
というとんでもないことを
吹聴して回るのが彼の伝道なのです。
 
>この望み、この永遠の世界につながる新しい生き方で、
>この方を我が力として生きるように、と
>天の神、主は仰っておられるようですね。 
>この新しい週も。
 
この方を我が力として生きる
という生き方は、彼に言わせると、
神の力の使い方を彼が知っているかのような
言い方になります。
 
神を恐れるということを
何も知らないでいると
信仰は成長の可能性を失い
もう完成して何も変わらず新しくもないものを
新しい生き方と言って満悦してしまうようになります。
 
 
今日の「ローズンゲン日々の聖句」
 
わたしの主なる神は、わが力。
ハバクク書3章19節
 
 これだけでは信仰者にとって当たり前すぎて
 その分、どう受け取ったら良いのか、迷います。
 これだけで感動して十分だという人は
 考えない人でしょう。
 
 日々の聖句は考えることを人に勧めているのに・・
 
だから、わたしたちは落胆しません。
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、
わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節
 
 
ハバクク書のほうの
近いところの聖句を引用してみます。
 
 (ハバクク書、口語訳)
3:2主よ、わたしはあなたのことを聞きました。
主よ、わたしはあなたのみわざを見て恐れます。
この年のうちにこれを新たにし、
この年のうちにこれを知らせてください。
怒る時にもあわれみを思いおこしてください。
 (ハバクク3:2、旧約聖書)
 
神が怒るときのことを承知していて
その上で考え、恐れを知り、そして祈り
憐れみを乞うていることを覚えてください。
 
聖句は
神の御業を知らない人間である
ということを考えた上で
それゆえ神の運びに期待することを教えています。
 
 
 (コリント人への第2の手紙、口語訳)
4:16
だから、わたしたちは落胆しない。
たといわたしたちの外なる人は滅びても、
内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、
永遠の重い栄光を、
あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18
わたしたちは、見えるものにではなく、
見えないものに目を注ぐ。
見えるものは一時的であり、
見えないものは永遠につづくのである。
 (2コリント4:16-18、新約聖書)
 
17節の軽い艱難が
一般的な意味で軽いとは思えません。
16節の
「外なる人は滅びても、
 内なる人は日ごとに新しくされていく」
に表れているでしょう。
18節は印象深い聖句です。
 
見えないものを見えるものにしてしまって
分かると言ってしまう信仰は一時的なのです。
過ぎ去ってしまえば何も残らないのです。
 
見えないもの、分からない余地を十分に持つ信仰のみが
「永遠」と名付けられた賜物につながってゆくのでしょう。
 
 
彼のように
自分で変わらないと決めつけてしまった者は
違う意見を向けられても対応できないので
誤りを認めることもなく無視して
自分には神が付いているのだと
自分で神を決めつけることに縋りつくしかなく
同じことを呪文のように繰り返すしかないのです。
 
工事途中で放置されたままのセメントを
宝石のように見せびらかして
受け入れられないと神の敵として呪うしかなくなります。
 
そうやって万能感と敵意に浸るのみで
もはや未知への憧れも持てずに
これから何が起こるだろう
というワクワク感もない常同の世界を
ピストンのように往復するしかないのでしょう。
 
地道に・・というのとは
大きく異なる剥げやすいペンキの薄い塗料の世界を
日々の聖句ではなく
日々の自説の確認行為によって
自分が頷き
人を頷かせる手練手管だけが命になってゆくような
地衣類の化石のような自作の日々の冗句を吐いて
過ごしてゆく日々に自己満足以外の
いかなる憧れを自らの執念に当てはめてゆくのでしょう。
 
 
人間は生きている限り
意識的にも無意識的にも変わりゆく動態の中で
アクティブに芽も花も実も求めてゆくものなのですが・・
 
 
(2015年05月31日、同日一部修正)
(2015年06月02日、一部修正)