魂を・・
 
 「祝福のそよぎ」批判(27)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/MYBLOG/yblog.html
 魂を救うことができる御言葉なのですね。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16752718.html
 
 
>生まれたときからの霊から出て来る思いは、
>どうあがいても、自分を少しでも高め、良い者にして、
>天の神、主に対抗して、
>自分をこの方よりも上にしようとする思いであり、
>それで、
>自分が他の人よりもすぐれた者にならないと気が済まない思い
>なのでしょうが、あの方の思いは、
>私たちの思いとは違うからとおっしゃるのですね。
 
神が人と違うということを
信仰以前の人のぼろくその思いと神の思いとは違う
と彼は書いています。・・一種のすり替えです・・
信仰以後は、罪も悪もなく
すべてうまくいくというのが彼の自説です。
 
>聖である霊と呼ばれる方が
>私たちの心に置いて下さる天の神、
>主の御思いに心を向けて欲しい、
>今日、わたしがあなたを通してしようと思っている計画を
>わたしと一緒に実行して欲しい、一緒に歩もうと仰っているようですね。
>天の神、主は。
>今日も。
 
彼に言わせると
うまくいくのは
神の思いを聖霊が人の心に置くから
という意味なのでしょう。
 
信仰者が罪を犯すことについて
祈って赦しを乞うという信仰生活について
自分の罪を認めない彼は書いていません。
 
そういうことだから
彼はいつも自分というお手本を示して
高いところから教える立場しか持ち得ないのです。
 
ゆえに「神と一緒に・・」という
神の立場を語ることが大好きで
神もそれを大好きだと信じているようです。
 
 
今日のローズンゲン日々の聖句
 
「悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
イザヤ書55章7節」
 
「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、
心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。
この御言葉は、あなたがたがの魂を救うことができます。
ヤコブの手紙1章21節」
 
悪を捨て去り御言葉を受け入れよ
という聖句はたくさんあると思いますが
 
自説を絶対化し
自分を正当化して
罪を認めない者によって
悪用されやすい聖句でもあります。
 
何故なら
この聖句には何が悪かが書かれていないからです。
当時は悪は敵対してくる者たち
または迫害者という時代ですから
比較的はっきりしていたからでしょう。
 
聖書を利用したい自説信仰者は
自分に反対する者を
やすやすと悪と決めつけ
悔い改めよ
そうすればまだ救われるなどと言って
わが意を得たりと自己満悦しやすいので
悦んで引用するかもしれません。
 
しかし実際は
自説信仰者がいちばん
罪を認めておらず
ゆえに悔い改めていないのです。
 
罪や悪といった信仰に背くことから
自分をあっさり除外しているのが自説信仰者です。
 
自説信仰者は
一途に人を教える高い立場に居たがるのです。
 
 
少し詳しく引用してみます。
 
 (イザヤ書、口語訳)
55:7
悪しき者はその道を捨て、
正らぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
そうすれば、主は彼にあわれみを施される。
われわれの神に帰れ、
主は豊かにゆるしを与えられる。
55:8
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
主は言われる。
55:9
天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
 (イザヤ書55:7-9、旧約聖書)
 
7節
悪しき道を捨てて神に返れ
8~9節
神は人の思いとは異なり
神の道は人の道とは異なる
神の道は人の道よりも高く
神の思いは人の思いよりも高い
 
神と人は違うのだと書かれています。
 
神と人の違いを考えるならば
安易に一方的に
意見の違う相手を悪と決めつけてはならない
ということでもあるでしょう。
 
その謙虚さは
自分を罪人という立場まで
低くしていないと出来ないことなのです。
 
罪人であることについて
昔は、信仰を得る前は、一般に人は、
などという婉曲的で実感のない表現では
この聖句を受け取ったとは言えないのです。
 
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)
1:19
愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。
人はすべて、聞くに早く、
語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。
1:20
人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。
1:21
だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、
心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。
御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。
1:22
そして、御言を行う人になりなさい。
おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23
おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、
自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24
彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、
そのとたんに、
自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25
これに反して、
完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、
聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。
こういう人は、その行いによって祝福される。
1:26
もし人が信心深い者だと自任しながら、
舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、
その人の信心はむなしいものである。
1:27
父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、
困っている孤児や、やもめを見舞い、
自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。  
 (ヤコブ1:19-27
、新約聖書)
 
分からないところもあります・・
 
「語るに遅く」は
軽口で夢のようなことや思い付きに過ぎないことを言ったり
都合が悪くなると「部分的」と言ってごまかしたりするような
無思慮に自分の都合だけで言葉を濁すことを戒めているのかもしれません。
 
しかし何よりも、文句を言うな、という意味で悪用されやすいのです。
 
「怒るに遅く」は分かると思いますが
表面に現れた怒りだけでなく
人には分からない沈黙のうちに怒ることも含まれるでしょう。
何故なら、これは神との関係だからです。
 
しかし何よりも自説信仰者にとっては
自分の言葉に怒ることは悪だとすり込むのに利用されるでしょう。
 
「御言葉を受け入れる」
自説信仰者に利用されやすいところです。
自説信仰者は自説が神の意思だと信じているからです。
 
しかし何よりも自分の言うことを黙って聞いて従え
という目的で利用されるでしょう。
 
自説信仰者こそ
御言葉を語り説明するにあたって
自分を鏡に映してみているのでしょう。
・・満ち足りて・・
 
でありながら自説信仰者は
本当の鏡を持たないようです。
本当の鏡に自分を移せば
自分がいかに罪深いかが分かるでしょうから。
 
自分を、人を、見ないのが自説信仰者なのです。
 
あとは聞くだけでなく行え
ということが書かれているようです。
 
 
ここにおいて私は失格者と言ってよいでしょう。
 
ここは保身に走ること勇ましい自説信仰者によって
突かれるところですが、しょうがありません。
心身ともに私には出来ないことが多すぎます。
 
私の信仰はもはや罪を認めて祈ることでしかないのかもしれません。
それゆえ罪を認めない自説信仰者を手加減なしに批判しています。
 
 
(2015年06月01日、同日一部修正)
(2015年06月07日、一部修正)