ふと思い出して書いておこうと思った・・
 
  情欲
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
ここのことを言っているのか、
昔、読んだ本に
キリストは男女の愛を否定した
と書いてあったのです。
 
男女の愛を否定したのではない。
キリストは男女の愛を述べるために来たのではない。
神の愛を宣べるために来たということ・・
 
この聖句を男女の愛の否定と受け取る解釈は間違いだと思います。
この聖句が何と言おうと男女の愛は否定しようもなくあるから
という理由のほかに
 
「教え」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17069547.html
 
に書いたように、解釈になりますが、
キリストの教えは厳しく守り難い、
何故なら
キリストの教えの収束するところは
罪なき者は一人もいない
ということだからでしょう。
 
キリストは姦淫の罪を犯した女を
石打ちの刑から救った、
またキリストは
娼婦や取税人が先に天国に入るだろう
とも言っています。
これらのことは
キリストが男女の愛を否定した
ということとは矛盾する行為です。
 
キリストの教えは
パリサイ人や律法学者が言う形式的な
杓子定規の教えとは違うということです。
 
戒律を形だけ守った彼らは
キリストにとって偽善の者たちとして
批判対象にしかなりませんでした。
 
私見ですが、神は
淫(みだ)らな人の際限のないことを最も嫌う
という思いがあります。
男女であれ、同性であれ、
淫らな行為にはお怒りになるだろうと思っています。
 
生存のため、とか、どうしようもなくて、とか、
罪であることを痛いほど分かっている人に対して
キリストは限りない慈愛を示している
ということを忘れてはいけません。
 
上の教えについて
子供をもうけるためだけに限って許される
というような
修正して帳尻を合わせたような解釈には同意できません。
 
キリストの教えは徹底しているのです。
世間体に照らしての調子合わせや
辻褄合わせなどは利かないのです。
 
きびしいのです。
 
その分
人間の本性と本音を見抜く洞察力によって
慈しみも限りないと思っています。以上。
 
 
(2015年06月26日)