見えざる神
 
 
1.祈っているとき
 神の存在を思い描いているのだが
 神を信じている人は
 神の存在を感じているつもりで
 本当の神だと信じている
 間違いなく「神に祈っている」と
 
2.地上の人生が終わって
 神の前にひざまずいているとき
 目の前の神以外に
 1.と同様に
 神の存在を思い描くことが出来る
 どちらが本物か
 「目の前の神だ」
 何故か
 「目の前にいるから」
 では何ゆえ地上にいるとき
 思い描いている神を本物だと思うのか
 「そのときは目の前にいなかったから」
 それはあなたの判断に過ぎないではないか
 あなたの判断で神の真偽を決めているではないか
 
2.の詭弁は
死んだ後のことですから
死んだ後に地上と同じ意識を持ち続けている
という前提がそもそも間違っているということです。
 
ですが
2.の後半「では・・」以降は正しいと思います。
したがって
1.は、地上でのことですが
思い描いた神が本物というのは人の傲慢です。
 
思い描いた神が本物なら
人はいつでも神を感じて神と交わり
ときには神から何か聞いたと感じるかもしれません。
思い描いた神が本物なら
その神から受けたすべてのもの、
イメージ、存在の在り方、聞いたこと、感じたこと、
これらすべてが啓示となり絶対化されてしまいます。
 
これらは神秘的な気分の中での人の思いに過ぎない
と判断するべきことなのです。
 
以上より、人は
人の感知できるところに神がいて
神と交わることが出来ると信じ込むのは、
人の知性と感性が神に会っていると思うことであり、
とても危険です。
 
思いを絶対化して信じ込んではいけません。
思いの記憶としてとどめておくべきです。
 
神に祈るとき信じるべきは
その祈りが
祈りの対象である思い描いた神にではなく
見えざる真の神に聞かれていると信じることだけです。
 
人が祈るとき
決めつけの傲慢不遜によって
神はこうだ、または、こうしてくださると
神に勝手な条件を付けないためです。
 
 
(2015年06月27日)