悪の問題
 
 
神によりキリストによって退けられた者たちの問題を
他人事ではなく
自分に当てはめて考える意識が信仰には必須である
 
神と神の栄光を語る賛美のみに陶酔して
背きと罪と悪と滅びに
自分を当てはめて考えるなど及びもつかぬという前提で
やすやすと自分を悪から除外して
問題の共有も共感もなく他人事としてしまって
どこかの悪いやつを責めて戒めるだけの
きれいにまとまってしまった言説ほど
神と神の栄光から
人のほうから遠ざかってゆく害悪はない
 
悪から自分を除外することが最悪である
 
悪を避けたければ
努めて考えるべきは自らの悪の問題だ
考えるべきは
神の栄光に同化して自分の悪を見失いかねず
いつの間にか
空しく神の至高の快感を誇り
そこにだけフォーカスしてしまうような
自らの陥りやすい偽善の悪の問題だ
 
ただの悪ではない偽善は悪よりも気づかれにくく
しばしば善の顔をして人に接着しようとするだろう
 
悪を戒めることが習い性(せい)と成って
戒める立場を専らと覚え込ませるなら
容易に偽善に取って代わられるだろう
 
救いと赦しは
赦される必要があるから与えられる
 
人が常に
いかなる悪とも決して無縁ではないからだ
 
言うまでもなく悪に共感するのではなく
考える対象が悪なのであり
悪に対する問題意識に共感するのである
 
悪の問題は
勘違いや思い込みによって誰でも陥る
という人間共通の問題であり
 
悪の問題を共有し考えて警鐘を鳴らし
その共感のもとに祈るのである
 
何故なら人間にとって
問題の共有と共感のみが
祈りとなり、祈りによって
人が悪を避ける唯一の術(すべ)だからだ
 
神を信じることは
悪から離れる道を望むことであって
悪から無縁であることが保証されるわけではない
 
それこそが
信仰が現在進行形であり続ける所以である
 
 
(2015年06月28日)
(2015年07月11日、一部修正)