無理
 
 
熱心であろうとする信仰の多くは
熱心に行為の方向を間違えて
熱心を反対の方向に向けて無理に努めている
 
神との人との立場の違い、
創造主と被造物ということを考えるだけでも
単純な距離と遠さでは測れないほど
決定的な違いがあるのに
 
何故か神に近づこう近づこうとして
神を自分に分かりやすく決めつけてしまう
 
 「神が近づいて
 分かりやすく表してくださるのです」
 
 それを自分勝手な
 人の決めつけと言っているのです
 
 それほど分かりやすく
 神が表わしてくださるなら
 こんな世の中にはなっていないでしょう
 
 「それは神の計画だから」
 
 そこだけ神の計画を理由にするのですか
 
 そうなると少なくとも
 神は人に明かしていないことがある
 ということになります
 
 ならば
 神が近づいて分かりやすく表す
 というのを
 そのまま人が真に受けるのは
 間違いだということになるでしょう
 
 
神の教えは守るためにあるということから
信徒なら非信徒よりは守っているだろう
という、いい加減な判断で、
(この辺は殆ど意識されないかもしれない)
義をいただくために
神に表さなければならないという決めつけによって
強迫観念が生まれて習慣になって
当たり前の口癖のように
口だけ神に感謝させ神を賛美させて
教えに忠実な信徒を演じさせている
 
その「当たり前」は
言動不一致に心が鈍感になっている状態だ
 
教えをもっと厳密に守れというのではない
それでは信仰は戒律に過ぎなくなる
 
何より
教えを守ることが信仰の中心ではない
 
教えはいつも
守れていないという現実を突きつけてくる
 
少しでも守れたと思えば
神の教えなのだから
それは神の前に誇ろうとする宗教人の姿だ
 
私たちは神の前に誇れる何ものも持ってはいないし
何ものも為し遂げてはいない
このことは信仰の原初において知っているはずなのに・・
 
教えを守れないから信仰が必要なのだ
 
守れない自分を神の前に捧げ祈り
任せることから始めるべきではないのか
 
少しでも生きた信仰を求めたいなら
何ゆえ保存したつもりで放置したままの
発酵させたつもりで腐敗してゆくような
漬け物のような信仰の行為を
心にもなく実感もなく繰り返すのか
 
(※「漬け物は美味しい」という皮肉に対しては、
 美味しい漬け物は放置していては出来ません。
 見守り、かつ、ときに、人は出来る限り
 手を加えることが必要です。)
 
 
小さくても大きくても
本気で感謝したいときがあり
そのときに感謝の祈りを捧げればよいのに
 
いつも感謝せよという教えがあるから
本心はそういう気持ちではないのに
感謝します・・と口にするのは
祈りというより
殆ど念じているに等しい
 
無理にでも感謝、感謝、を並べれば
それだけご利益があるかのように
念じる人の言葉そのものが信仰であるかのように
 
本心でない祈りを神は喜ばれるだろうか
 
 「感謝し讃美しました。
 このことに間違いはない」と納得して
 感謝したことにしたり
 感謝したような気分になったらよいのか
 ウソなのに・・?
 「神が計らってくださるのです」
 ウソをウソの数だけ・・?
 神は思い計らってくださるというのか
 
 目一杯のことをして
 できなかったことを赦してください
 という祈りよりも・・?
 
いつも感謝せよという教えに対しては
むしろ
感謝できないことをお赦しください
という祈りのほうが大切ではないのか
 
(※
 悲観論ではありません。
 守ることを自分に強いたあげく
 人の力量の乏しさを神に告白しないまま
 感謝と賛美で代替するよりは、
 守れないことを祈ることのほうが
 神の取り成しを願う祈りであり
 人間として神の前に正直であり
 むしろ安らぎに近いと思います。)
 
信仰に熱心であろうと思うなら
人の熱心がしばしば方向音痴の的外れであることの
人の思慮がしばしば教えを守ったかのような的外れであることの
人の感謝がしばしば自己満足の的外れであることの
赦しと救いと導きを祈るべきではないのか
 
 
(2015年06月29日、同日一部修正)