具体
 
 
人は様々な神を想像し想定してしまうのだが
その神?なる想像のどれをとっても
神と呼ぶに値せず
絶対正義の具体を持ち得ない
つまり人の神に対する想像力はその程度のものである
 
人は真の神を想定することは出来ない
 
人の心に全能は入らないからだ
 
神の存在も不在も証明できないのと同じように
自分の信じる神が
真の神であることを証明することは出来ない
 
ましてや人が
神の意志と行為を具体的に示すことなど出来はしない
 
したがって信仰は
神が人に具体的にどうしてくださるから
という契約でないことは明らかである
 
ゆえに神に任せる委ねる・・というのは
神は自分を自分の望み通りに運んでくれるから
という契約ではない
 
全身全霊を任せ委ねることは
生涯にわたって
神の懐(ふところ)に身投げをするようなものだ
 
神の行為を人が好きなように限定して
毛と皮の一部は犠牲になってもよいが
胸と頭は大事だから守っていただく、
つまり軽い傷は負うが
重いあるいは致命的なことにはならない、
というような条件で安心させる性質のものではない
 
人は神の創造物であるから
壊すときにわざわざ人に説明する必要はない
という立場の決定的な違いをわきまえるべきだ
 
体も心も命さえも奪われて
この世の誰もが
それは幸いでしたとは言えない運びであっても
絶対の価値に身を委ねるということは
肉体と精神の安全の保証ではない
(多くの殉教者と、キリストが味わっている)
 
その杯(さかずき)を受ける整合性は
自分と世界の終末においてのみ
明らかになる契約としか言えないのが信仰である
 
古今東西にわたって人が神を待ち望むのは
今は隠れていて酷い有様だが
いつかは顕現して総てを正してほしいと
願い続けているからだろう
 
 
(2015年07月21日、同日一部修正)