前にも書いたことがありますが・・
 
 
  視野と信仰
 
 
視野は自分について
 狭いと思うとき最も広く
 広いと思うとき最も狭い
 
視野は自分の視野の外に
 未知を認めるとき最も広く
 未知を認めないとき最も狭い
 
前者は可能性を肯定し
後者は可能性を否定しているからだ
 
ゆえに前者には変革と成長があり
 
後者は悲惨なことに
神さえも自分の視野のうちに納めてしまい
自分の視野外に神を認めなくなる
 
この悲惨な後者は
古い基準で人を裁き
変わることを受け入れず
心の常同行為を信仰だと思い込んで
あらゆる言葉と見方が前と同じでないと気が済まない
 
古い基準とは自らが定めた価値基準であり
あらゆる時間と世界を理解したつもりで
そこから外へ出ようとする信仰を背教と呼ぶだろう
 
人の理解は相対的で
新しい時と所によって変わらなければ
どんどん的を外れてしまうのに
 
神は変わらない
しかし
人の在り方は自覚がなくても刻々変わってゆく
ゆえに人は不変ではあり得ない
 
後者はそれにすら気づくことがなく
変わり果てても同一だと思い込んでいる
そうして
神の不変を自らに当てはめ
人の信仰は不変だと信じ込んでいる
 
人は不変ではあり得ない
 
心と言葉で生きている人間は
変わらないつもりでいても変わってゆく
 
人は神の不変を持ち得ない
 
変わることを拒む信仰は
自らを全能の神と同じプロセスに置こうとする
 
人は全能ではない
 
したがって不変の人になってしまった信仰は
不全が完全を持とうとすることに等しく
自分の視野の中を往復しているに過ぎず
それは成長するべき心を
古いままの視野に閉じ込めてしまう
 
人にとって
可変であることは一つのリスクだが
人に与えられ自覚できるリスクである
 
不変などあり得ないのに
信仰を不変としてしまうのは
リスクというより危険であり
しかも自覚することさえ困難にしてしまう危険である
 
信仰を不変としてしまう在り方は
皮肉なことに
リスクを超える全能の導きを信じていないのだ
 
変わらない信仰を称えるのは自画自賛であり
その賛美を神に向けようとしても
自分が定めた視野の中で
自分に戻ってくるだけだ
 
私たちは
変わってゆく自分を神の前に捧げて
全能の導きを祈り
自分の視野の中にとどまることない信仰
つまり神の関わりを求めるべきではないのか
 
 
(2015年07月25日)