全知全能
 
 
人は不完全なので
ときに間違えることがあります
 
ゆえに人が抱く思いは
修正可能でなければなりません
 
ましてや
人が神に抱く思いは
どんなに確信があっても
修正可能でなければなりません
 
ゆえに
修正不要~不可と信じ込むことは
人の罪性の理解に反しており
 
神の御心に反していると思います
 
何故なら
全知全能と信じたのであれば
神は
不完全で救いを必要としている民
即ち人が
人の罪性を理解した後にもかかわらず
全知全能の神ご自身のことを
人の言葉で理解したかのように振る舞うことを
善しとしないだろうという推測が
人の思いにおいて考えるたびに成り立つからです
 
さらに
人が人の罪性の理解に反していることを
そのたびに神は既にご存知だからです
 
したがって宣べ伝えるということは
修正不要~不可と
信じ込むことを教えることではなく
信じ込むことが正しいと伝えることでもありません
 
私たちが全知全能の神を信じることについて
神の由来や筋書きや意志や行為など
人の分かる言葉にされていることを信じる
という聖書の絶対を主張することは正しくありません
 
何故なら
聖書の言葉は人によって
実に様々な思いを起こさせます
つまり様々であること自体が
すでに絶対ではないことを意味するからです
 
聖書の言葉を
丸呑みするように自分に当てはめて
神の絶対として信じ込む信仰は
間違っている以上に神に背く行為です
 
聖書の言葉が絶対であるのは
人に分かる言葉としてではなく
祈る相手として
祈れば聞かれることで
救いの希望が絶えることはないと
全知全能に期待して止まないところにあります
 
それこそが
私たちの思いでは決して
辻褄を合わせることの出来ない全知全能を
人が待ち望み祈ることであり
人に出来る最大限の讃美であり
信仰において
人が関われる精一杯であります
 
 
(2015年08月03日)