解釈と信仰
 
 
聖書の解釈に過ぎない
というような
否定的なニュアンスを何度も書いてきたが
解釈してはならないと言っているわけではない
 
というより
読むとき必ず解釈している
つまり解釈せずに読むことは不可能だ
 
私も解釈を記事にすることがある
 
解釈すれば
何らかの筋書きのようなものも生まれる
また理路のようなものも生まれておかしくないし
仮説も生まれておかしくはない
 
だから当然
解釈も
筋書きも理路も仮説もそれぞれ
信仰者は持っているだろう
 
問題は
前から書いてきたように
それを神の真理として信じ込んでしまうことであり
修正不能になってしまうことである
 
聖書の解釈も
筋書きも理路も仮説も
ひとりひとり微妙にまたは大きく違い
教派によっても違うということは
たくさんのそれらがあるのであり
ならば
その中の一つだけが正しくて
他のすべては間違っているのか
ということになり
結局
誰かは分からないが
正しい一人を除く信仰者の大部分は
信仰を持っていないことになってしまい
救われるのは一人だけかという
とんでもない話になってしまう
 
にもかかわらず多くの信仰者が
人に教えられたかどうかは別にしても
自分の解釈を信じてしまうのは何故か
 
推測するに恐らく
「信仰」という言葉の先入観ではないかと思う
 
信じ仰ぐのだから
先ず信じなければならない
と思い込んでいるように思われる
 
加えて教会で
疑わないで信じることこそ信仰と
幼子のたとえなどを用いて
熱心に教え勧めているからだろう
 
「信じることから始めなければ」
という言葉があるようだが
この「信じる」は
最初から拒むことはしてはならない
という程度の意味だから
信仰者が「信じます」と言うのとは違う
 
人にとって
アプリオリは人間性であって
信仰は決してアプリオリではない
(アプリオリ≒生得的で
 経験に基づかず
 論理以前に自明のこと
 ・・くらいの意味で使ってます)
ゆえに
全く疑わないのは
ただの無思慮である
 
旧約聖書には
神に文句を言う人も出てくるが
(ヨブ、ヨナ、など)
今は
神は直接教えてくれるわけではないのだから
私たちは聖書や説教のすっきりしないところは
積極的に疑わなければならない
それが信徒の務めであり
それを共有することが教会の務めである
 
疑うことによってのみ人は考える人間になり
疑問を共有することによってのみ
教会は
信仰者と求道者
という人間の集まる魂のホームとなりうるだろう
 
 
(2015年10月01日)