殺すなかれ
 
 
人を殺してはならない理由については
前にも考えたが
考えそうなこととして
 
傷つけることの極限という考え方
 
傷つけられたくないなら傷つけるな
ということから
殺されたくないなら殺すな
 
しかし殺さなくても殺されることがあるので
条件法で表すのは無理がある
さらに戦争や正当防衛や自殺の問題になると
ますます難しくなってくる
 
何より傷つけることと殺すことは違う
例えば
脅す目的で傷つけることは出来ても
脅す目的で殺すことは出来ない
 
どんなに傷つけても
傷つけている間は
その延長上に殺人はないのだ
 
傷つけることが重なって死んだとしても
傷つけることと殺すことには
回復可能か不能かという決定的なギャップがある
 
結局やはり
理由は言葉では説明できないにもかかわらず
人間なら直感で弁(わきま)えることとして
大部分の人が同意している大切なことだと言うほかはない
 
 
聖書とキリスト教について考えると
「生きる理由はキリスト教では簡単です
 主が生きよと命じられるからです」
というようなことを聞いたことがある
 
そこから考えると
殺してはいけない理由は
主が殺すなと命じるからだと言うことになる
 
しかしそれは
もし聖書に書いてなかったならば
あるいは聖書を読んでいなかったならば
あなたは人を殺したり
自分も生きるのをやめたりするのか
と返されるだろう
 
聖書は規範を強化することはあっても
生得的で証明不能の
規範に先立ってあったとは言えないのである
 
 
このような重いテーマについて
可能不可能を含めて
最も深い思慮を専らとするのは哲学で
そこから多くの人文科学が成り立っている
ような気がするのだが
 
哲学は多くの精神の資産を残しながら
好きな人たちの間で用語と概念を楽しんで
まるで限られた集団自己満足の趣味であるかのように
日常語で敷衍(ふえん)する使命を怠ってきたのではないか
という印象を禁じ得ない
 
・・哲学がまるで
 役に立たない学問の代表であるかのように
 冷遇のされ方が尋常でないのは
 このためではないかとさえ思える・・(?)
 
 
かく言う私はと言えば
哲学書は一冊も読んだことはありません、
読書障害なので・・というようなことを書いてきた
 
つまり私は私で
黙読が遅い→読書苦手→読書障害の可能性というのを
色々なことを勉強しなかったことの
言い訳にしてきたのである
 
キリスト者のくせに私は聖書さえ全部は読んでいない
(・・冷汗、汗、汗、以外に何があろう・・)
だからといって
聖書を熟読しているはずの人々が
おおよそピント外れなことを書いているのを見て
何も言わないわけにはいかないだろう
という動機で書いている・・
 
いかなる立場であっても出来ることが何かあるはずで
資格がないとかどうとかで
生き方に関わることについて
考えることと表すことをやめていいはずはない
ということを言いたいのか・・
 
 
(2015年11月04日)
だいぶ話が逸れておりますが・・
日記みたいに思うままに書いているので
・・と、また言い訳している・・