信仰と条件
 
 
福音そして神の契約は
神からの
人に条件を付けず
告白と祈りによって
成立する救いの約束ですが
 
無条件であるからには
人も神に条件を付けてはいけません
 
なのに人は
理想のイメージを付けたり
習い覚えた筋書きを付けたり
美味しい話を付けたり
自分の体験と因縁を付けたり
自分の頑張りの成果を付けたり
自分の誇りを付けたり
いろいろします
 
それらは祈りによって
告白され反省され
悔い改められるべきことです
 
自分に都合のよい神
という条件を付けてはいけません
 
それでも人が
故意に付けた条件を
外そうとしなければ
その人は
神の民になりたいのではなく
都合のよい神の民になりたいのだから
人の側から契約を破棄しているようなものです
 
神は導かれるでしょうけれど
導きを拒否する者はどうしようもないのです
 
仮想すれば
神が万能をもって拒否する者の行為を
コントロールすることは可能でしょう
しかしそうすると
神に直接コントロールされ
自由意志を持たなくなったその人を
その人とは呼べなくなるでしょう
 
救われるということは
人が別の人や
人を超えたものになることではない
 
救われるということは
人が自由意志を持つ人間として
御心に従うことであり
人間においては
突然、別の、すっ飛んだものに変わるのではなく
その人間の成長の連続線上にあるから
人は共感が出来るのでしょう
 
人がキリスト者になりたいと思ったとき
その変化は決してその人格が
別の格に変わるような変化ではなかったはずで
信仰を求めたのは、カルトでない限り、
どこまでも人間的な欲求だったはずです
 
人間的な欲求であることを忘れて
人に都合のよい条件を救いに付けて
とんでもない保証に安住していると
特別な荒行や厳しい修行でなくても
成長のための試練は意識されにくく
努力は放棄されやすいでしょう
 
いかなるときも
神の無条件の救いに与るために
人は救いに条件を付けてはいけません
 
救う神と
救いに与る自分という関係
だけでなく
背けば懲らしめる神と
反省する自分という関係を知るべきです
 
 
(2015年11月27日)
 
与る(あずかる)
懲らしめる(こらしめる)