経過
 
 
善いと褒め称えられたことが
あとには悪い種になるということがある
それが人の業だろうかと思う
 
人は結果として留まることは出来ない
 
人は経過に過ぎないからだ
また結論も経過であり過程である
 
聖書も例外ではない
と言えば
強迫的先入観に囚われている人は
とんでもない・・と怒るかもしれない
 
それこそとんでもない
そこで人はしばしば踏み違えるのだ
 
人の言葉で表されたものは
様々な方向に解釈が向かうことがあり
よって聖書は
様々な教派とカルトの根拠になっているではないか
 
聖書も読んだとき解釈され
人によって解釈されれば人の言葉である
 
聖書は神の言葉だとしがみつく者は
結局、自分の言葉にしがみついているのだ
 
聖書の言葉を
人間の言葉として通じるように
生かすのが人間の使命である
 
むしろそこに人間の生きる姿があり
人間の言葉に託される
という神秘があり
したがって
終末まで終わることのない営みと歩みがあるのだろう
 
終わることのない歩みだから
善い種と悪い種を
その都度、何度でも考えてゆく必然が生まれ
考える信仰の必然が生まれる
 
いかなる人間も生きて経験を積み重ねているのだから
考えることが出来ない人間はいない
というレベルの思考をともにするのだから
そこに完璧な答えは求められてはいない
 
答えは経過であり過程だからだ
 
 
(2015年11月27日)
 
善い(よい、良い、好い、佳い)
褒め称える(ほめたたえる)
業(ごう)
囚われる(とらわれる)