装飾教会
 
 
説教ではなく
処世を用いる牧師がいる教会では
 
例えば
命の道か死の道かと問われれば
死の道を選ぶ人はいないわけで
逆らわなければ
牧師の教理的信条をそのまま受け入れることになる
 
去ってゆく人は何か反発があるわけだが
はぐらかして、まともな返答がなければ
去る分には、どうぞ、
ということで、止めない、気にもかけていない
 
・・逸れた羊の話はどこへ行った・・
 
そして残った人を教理べったりに漬けてゆく
 
そのようにじっとりと
聖書に対し無頓着で安易な脅迫的言辞のやり方を
伝道の業(わざ)を装いながら
処世の技(わざ)として身に着け施してゆくのだろう
 
信者は信者として
聖書を読んで印象深い聖句については
かなり知っているので
今さら処世の説教を聞いても
感動もしないし深みも感じないのだが
 
説教を聞いているふうを装う処世の信徒と
説教をしているふうを装う処世の牧師によって
装いだけで教会が出来てゆくのだろう
 
ただの一人の人に
聖なる職責を与えてしまう結果はこのようなものだ
 
口下手でも気の利いた話を語れなくても
誠意をもって
疑問を受け止めて共有し共感することが出来れば
信徒が牧師を育てることもあるだろうし
牧師も信徒と交わって共に育ってゆくことも出来るのだが・・
 
 
(2015年11月29日)