「労苦」
 
 ブログ:その名は不思議
 記事「神は神。人は人。」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27095146.html
 
 
他者の記事の引用と
彼のコメントを記事にしています。
 
 聖句引用:
 人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」
(旧約・伝道の書3章1~8節)
(ここは、9~11節です。)
 
そして彼は聖句を逐一解説しています。
 
 
聖句
《人が労苦してみたところで何になろう》
 
>この言葉は人が《神の時》を思うがままに、《人の時》に変えようとする時の、
>人の思い煩い、ストレスで苦しむこと、徒労を表す言葉でしょうか?
>あるいは人が神にかわって、
>自らを神として生きることの労苦の虚しさを表す言葉でしょうか!?
 
「何になろう」という否定的な言葉に
彼は、否定だからこの労苦は神に背くことに違いない
と解釈しているようです。
この「労苦」を、
神に背き、人が思うままに変えようとする労苦だと解釈しています。
だから、思い煩い、苦しむ徒労なのだと言っています。
神に背いて生きることの労苦は空しい・・という話になっています。
 
苦労するときには自分のため家族のため世のため人のため
そして神のため信仰のため・・いろいろですが、
苦労しているとき、人は
神に背いているかどうか分かるでしょうか。
 
神に背いているかどうか信仰者でも
結果として反省するだけでしょう。
 
この労苦には何の形容詞も
限定するような言葉も付いていません。
 
世を生きる人への共感に満ちているのに
 
彼は苦労している人に
そのストレスは神に背いているからだよ
とでも言うつもりでしょうか。
ここでの問題は人生の一般的な問題です。
なのに彼は単純に
罪に帰することでこの聖句を解釈して済ませるのでしょうか。
 
彼には
人が良かれと思って苦労しても悪い報いや
さらなる労苦が訪れることがある
ということが分からないのでしょうか。
 
私から聖句引用:
義人がその義によって滅びることがあり
(同書7章15節)
 
なども現実と歴史と人生を考えれば
共感を持てる箇所なのです。
 
私にも伝道の書には好きな聖句があります。
聖書には
神様は正義を行い正しいということばかりを書くことをせず
人間としての共感に溢れる文章があります。
それによって
聖書をただの神がかりの道徳の本にしていない良さがあります。
 
しかし彼には
神の道が分かっていて彼の行為は空しいことがなく
聖書も空しいことなど書いてあってはならない
と思っているのでしょうか。
だから
共感するところに共感できず
解釈を曲げて彼の善に導こうとするのでしょうか。
 
 
聖句
《わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた》
 
>この言葉は常に人を愛し、最善をなさる神を信頼し、自らの業を手放し、
>明け渡しゆだねることが人のなし得る最善の生き方であるという事を表す言葉でしょうか!?
 
前から述べてきたとおり
彼には、人が背けば懲らしめる神は存在せず
彼には
「常に人を愛し、最善をなさる神」しかいない、いてはならないようです。
彼の聖書と神の見方の特徴が表れていると思います。
 
そういう見方では
「明け渡しゆだねる」信仰の「最善の生き方」が
恐ろしく非現実的になってしまいます。
これを解説として平気で書いてしまうことが信じられないのです。
 
「(自分には)分からない(ことがある)」と言えない人の特徴でしょう。
彼の言う「最善」?になれるのは独善の自己満足だけなのです。
 
 
彼の記事のテーマも記事の中にも
「神は神。人は人。」と彼は書いていますが
人の世の労苦に対する共感のないところで
神に従って完璧を目指せ・・と言っているのと同じような言説では
命のない空気よりも空しいと感じます。
 
つまりあとは
「永遠を思い」「信仰によって生きるように」
「高ぶることなく神に対する信仰、信頼によって生きるべきこと」
「神を求める霊的、宗教的存在」
など・・目一杯の聖書的美辞麗句を並べても
何も変わらないようなことばかりのようなのは
人間的共感を聖書から読み取っていないからだと思います。
 
人が神の属性としての永遠を思い
不全の人の罪について考えないなら
書かないなら言わないなら
これほど空しいことはありません。
 
 
神は完璧である
ということから、
彼は完璧な善を目指すようになってしまったのでしょう。
それが誰にも出来ないことであるにもかかわらず・・。
 
信仰によって彼は善を目指した
それは幸いだと評価するべきだろうか
しかしその善は
たやすく偽善に変わりやすい善だった
それを齎(もたら)したのは
彼が信じ込んだ神と信仰の考え方だった
 
そこを信仰の初期に
罪人である人間という立場の自覚から
赦しと救いへと導いてくれる人がいたなら
こうはなっていないはず・・それが宗教の怖さなのです。
 
聖書は多くの人間的共感を与えてくれます。
神がかった人間離れした言葉ばかりではありません。
受け取り方ひとつで
神を信じて生きようとした多くの人々の
生き様の空しさと尊さを知ることが出来るのだろうと思います。
 
それを知れば
偽善や独善などには陥らずに済むのだろうとも思いますが
そこは私も「空しさ」と書いてしまうほど
到達できず、また備わらないでいるところだろうと思っています。
 
人類が肥大した殺傷能力を持つ時代に
争いと殺戮が世界中で起こって
しかも悪化しているような、
何だか変な話アルマゲドンを思わせるような時代ですが・・
これからの時代を生きてゆく人々に期待を寄せたいと思います。
 
彼からの反論を待つことにしますが
今まで何年も返してこなかったから
これだけ書いても・・こないかもしれません。
 
 
(2015年11月30日)
今朝の深夜にあちらの記事を読んで、また急いで書きました。
誤字脱字また御意見などありましたらコメントください。