罪人の自覚
悪とそれに対応する罪の自覚
いや
悪と罪のすべてを自覚することは困難なので
せめて
自分は罪人であることを自覚し
そこで祈り
そこから語り行えば
それだけでキリスト信仰の
救いに与るには十分であり
目一杯と言えるだろう
自分は罪人であるという自覚がなく
双方向による修正の可能性さえ捨て去った者は
どんなに聖書を勉強していても
救いの可能性を自ら捨て去った者であり
何を信仰として捧げたとしても
人間の世界において
救いが必要で救いを求める者としては
成り立たないのだ
それくらいキリスト信仰では
罪びとの自覚は不可欠で
そのために双方向を
どこかに持っていなければならない
罪びとの自覚があれば
神に対しても人に対しても
思い上がることはないだろうし
人間離れする危険も少ない
また道を外れたときも修正可能を期待できる
罪人の自覚のある人は
言動にそれが表れてくる
言動にそれとは反対のものが表れてくる人が
同時にキリスト者たりうることは
ないと言ってよいくらいに困難である
それくらい
自分が罪人だという自覚と信仰は不可分なのである
罪人の自覚はそれだけで
救われる条件を満たすと言っても過言ではないだろう
※
救われ体験の有頂天から思い上がって
その分、いつも他者を見下す人に
いったいどんな救いが想定できるだろう
「先の者が後になり、後の者が先になる」
とは、ひょっとしてこのことか・・とも思う
(2015年12月28日、同日一部修正)
与る(あずかる)
「先の者が後になり、後の者が先になる」
とは、ひょっとしてこのことか・・とも思う
(2015年12月28日、同日一部修正)
与る(あずかる)
コメント