「幼子のように?」
 
 ブログ:その名は不思議
 記事:幼な子のようにならなければ
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27161137.html
 
 
隠し事を不可視化して
偽りによって人に受け入れられようとする者は
また古い説教を持ち出して
信仰の教師たる自分を誇示しているようです。
 
>イエスは「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、
>天国にはいることはできないであろう。」
>(新約・マタイによる福音書18章3節)
>と言われました。
 
>幼子には知性も理性の働きも経験もありませんが、
>無心に母親のところに来ることによって
>母親の愛と保護を受けるように、誰でも幼子のように神を信じ、信頼することによって、
>神の存在とその愛を体験することができるのです。
 
「幼子のように」という文言は
聖書にも書かれている有名な聖句なので
福音伝道においてしばしば語られます。
それは間違えば
説教者が自分の言うことを
疑わず信じることを勧めることになるので
私はそのことについて
「幼な子」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/16126637.html
「幼子」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17661807.html
に書きました。
 
そこに書いたことを少しあげておくと
 
キリストが相手なら
幼子のままでよいでしょう。
しかし相手が
 ただの人間ならそうはいきません。
 
信徒の在り方の理想として上の聖句を引用して
「幼な子」を持ち出す者に注意してください。
 
幼子でなくなった大人は
人間として考えなければならないことがあるはずです。
 
幼子は意図して善行を積むことも出来ない
 ということを知っていてほしいと思います。
 
このブログを読める人は既に大人です。
だから考えてください。
 幼子は譬えなのです。
 私たちは幼子には戻れないのです。
 幼子のようにはなれないのです。
しかも語りかけてくるのはキリストではないのです。
  
 幼子の「素直」なイメージを利用して
口数を少なくすることや、
 
「幼子のように」受け入れて
文句を言わず聞き従うことを勧める者は
 キリストの前で最も幼子から遠い者です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
18:6
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、
大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、
その人の益になる。
 
幼子が純粋というより心が空っぽで
栄養も薬も毒も区別できないことを利用して
勝手な教えを吹き込むことを厳に戒めているように思われます。
 
素直さを利用すれば
罪の誘惑を来たらせることもあるということ・・
 
 
上の記事のタイトルの下に
リンクを付けてあるブログの管理人(以後、彼)は
私と対立関係にあり
彼は私のコメントを承認制にして不可視化したのち
ついにはコメント欄を廃止しました。
 
彼は私の記事を読んでいないようです。
それは人の言うことなど聞かなくてよい
という意思表示のようです。
もし読んでいたのであれば
彼は人の意見を受けて考えることを拒否していることになります。
 
双方向での意見交換を拒否して
彼はそれでも自分の言うことは正しいと
ずっと言い続けた古い説法で
そのまま無反省に主張しているようです。
人は自分の言うことを黙って聞いて
幼子のように?従えというのでしょうか。
 
 
彼は聖書を幾つか引用しています。
これも前に書いたのですが
聖書に書いてあるから絶対正しい
という確信のもとで書いているようです。
「聖書に書いてあるから」
これも問答無用の無謬性を人に聞かせて
自分の解釈を受け入れさせようとするやり方です。
自分の努力不足を神のせいにする態度だと思います。
 
不可解や矛盾の指摘をいくら書いても変わらず
前にも書いたようなことを平気で書いてくる
というのが彼の特徴です。
双方向を拒否すると
こういう説教をするようになります。
 
>信仰とは人が口をあけて食物を食べるように、
>人の言葉や約束を心で信じるように、
>特別啓示である神の言葉とイエスを心を開いて信じ受け容れることです。
 
こういう態度で
伝道が成り立つなら信仰はとても簡単でしょう。
 
彼は啓示について
イスラエルへの特別啓示と
自然の中に現れた一般啓示を分けて
説明しているつもりのようです。
 
>神はイエスによってご自分の存在とそのみわざを完全に啓示し、
>私たちが神を知り、信じることができるようにしてくださったのです。
>その神との出会い、交わり、知る道、方法が信仰なのです。
 
ここに
人間として考える
ということを除外するならば嘘です。
それは信仰において妨げとなり
伝道において人を欺く行為だと思います。
 
彼は特別啓示を受けたと言いたいのでしょうか。
特別啓示を受けたら神と出会うから
もう考えなくていいと言っているのでしょうか。
 
彼とはネットで十年ほどの
ブログで約5年ほどの付き合いですが
少なくとも5年前と少しも変わっていません。
 
彼は聖書に神に従っているつもりで
どんどん人道から外れていくように思われてなりません。
 
>「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、
>わたしはわが力の及ばない大いなる事と
> くすしきわざとに関係いたしません。かえって、乳離れしたみどりごが、
>その母のふところに安らかにあるように、
>わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。
>わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。
>イスラエルよ、今からとこしえに/主によって望みをいだけ。」
> (旧約・詩篇131編1~3節)
 
彼の心は傲り高ぶっていると思います。
彼は魂を鎮めているのではなく
思考を彼の沼の中に沈めようとしています。
 
彼は安らかではなく自閉ブログの中で
とても安易になっているだけだと思います。
 
幼子が人の意見を封じるという小細工をするでしょうか。
彼はすべての不都合を人のせいにして
自閉することで難を逃れた気分になっているだけだと思います。
 
彼の言うことを真に受ける人がいないように祈るばかりです。
 
 
(2015年12月28日)
 
傲る(おごる)