信仰と学習
 
 
信仰を勘違いして
言葉が聖書的な言葉だらけになるのを
信仰者らしいことだと信じ込んでしまう
 
そういう聖書的な言葉を
聖書語と呼んでいる
 
ある事柄について考えるのに
聖書語という表現しかなくなる
しかもそれは
あまり多様性のある言葉ではない
つまり似たようなことを
何度も言うことになる
 
これは言葉だけの問題ではない
何故なら言葉は心が選ぶからだ
 
聖書語以外の表現や文脈を
不要の物のように使わなくなり
言語が固定してゆく
 
それによって、またそれとともに
思路も信仰の通念的は道筋しか辿らなくなる
教えられた思路しか働かないように
習慣づけられる
 
言語とともに思路を選択して固定するのである
 
私たちは生活の中で言語を学習するが
学習の範囲が限られてしまうことになる
 
言語、思路、感受性、表現、
いずれも貧困になってゆく
 
そういった限り方が信仰か
というと全く否で
人間は無限の可能性を持って
言葉の翼を広げるという可能性があるのに
自分でそれを限定して
信仰として絶対化して喜ぶ
という奇妙な習慣を染みつかせてしまうのである
しかもそれを信徒から牧師から
摺り込まれてゆくのが信仰生活になる
それは信仰とは関係のないもので
人間が信仰の名によって生み出す弊害に過ぎない
 
信仰者の中には
同じ言葉を使えば同じ理解を得られる
と思い込んでいる人もいるだろう
 
信仰者の中には
聖書=神の言葉として
同じ言葉を動かさないことが
神の御心に適うと思う人が多い
 
しかし神の言葉が
人の言語を制限するなどということには
何の根拠もないのである
 
それは大きな間違いで
人の言葉は不完全で曖昧で
言葉が心に与えるものは
いつも揺れ動いているのが本質である
 
ゆえに言葉の表現は制限されてはならず
自由でなければならない
 
思考と感性が
信仰によって不自由になってはいけない
 
私たちは
他者から縛られることが多い世にあって
神の言葉ではない人の言葉を
信仰によって
神のもとに解放していなければならない
 
信仰は解放する
決して制限はしないのである
 
 
(2015年12月31日、同日一部修正)
(2016年01月06日、一部修正)
 
否(いな)
辿る(たどる)
適う(かなう)
染み付く(しみつく)