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  「その名は不思議」批判(4)「内なる人?」
 
 ブログ:その名は不思議
 記事:内なる人と外なる人
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27170217.html
 
 
前の記事の
どう見ても失言と思われることについて
彼は仏陀まで持ち出して理屈を捏ねて
苦しい言い訳をしているようです。
 
(2コリント4:16)
だから、わたしたちは落胆しません。
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、
わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
(新共同訳)
 
>「外なる人」の衰えが分かるほどに
>「内なる人」が新しい命に生かされている
 
いったいあなたのどこが新しくなったというのでしょう。
ばれなきゃいい・・という根性が続いているではないですか。
 
>この1年、先々の心配や不安もこの方に丸投げしてもいいのですね
 
罪は犯し続けるあいだ罪であり続けるのです。
 
罪を犯し続けるあいだ赦しを拒んでいるのです。
 
あなたが罪を丸投げしようとしているのは
今後一切何をしようとも許してくれる神なのですか。
 
昔あなたが私に教えたこと、つまり
罪について「許す」と書かず「赦す」と書いた意味は何なのでしょう。
 
いったい神があなたを
どう持ち運ぶことをあなたは確信しているのでしょう。
 
>2015年の締めくくりの記事のテーマは
>“死こそ救いの道”でした。
>新しい年2016年を目前にして縁起の悪いテーマだと思われましたか。
 
何故こう書くのでしょう。
 
「死こそ救いの道」を読者に投げておいて
危険の説明も記事の修正もせずに
聖書を引用して理屈を捏ねてあなたが言いたいのは
やはり
自分は間違ったことや不適切なことは言っていないと?
ただ「縁起の悪い」だけではないのに
それでも自分はいつも正しい・・という圧力で押したいのですか。
罪を認めない人、隠し続ける人、それでもキリスト者だと?
 
あなたのような人が
また言うに事欠いて今度は
 
>仏陀はすべての人の苦しみ、生老病死からの救いを求めて、
>すべてを捨てて出家したようです。
>生老病死は外なる人には避けることのできないことです。
>外なる人からの解脱を求めて、修業し、悟り、涅槃寂静という、
>苦しみからの救いを得たと云うのです。
>その悟りの道を記したものが仏教とされているのです。
 
今度は仏教的理屈を持ち出して・・
 
あなたはすべてを捨てたのですか。
 
仏陀がいい迷惑だとは思わないのですか。
 
まさに手段を選ばないあなたらしいやり方です。
 
すべてを捨てられないから隠し続けているのでしょう。
教師としての自負を捨てられないから偽り続けるのでしょう。
 
>イエスは十字架の道こそがその道である
 
そして次はキリストに
あなたが今犯し続けている罪を着せるつもりですか。
人に良く見せるために、人を欺いているという罪を・・。
 
>わたしたちの眠れる内なる人を覚醒し、生かし、信仰によって
>その道を歩む事が出来る救いの道を開いてくださったのです。
 
あなたは内なる人を眠らせたまま
あなたの外なる人は隠し続けて偽り続けて
人に良く思われる自分を装い続けるのですね・・
 
到底あなたの内なる人が働いているとは思えない所業を続けて
それでも内なる人が新しくなっていると嘯き続けるのですか。
 
内なる人を闇の中に滅ぼしているプロセスだとは思わないのですか。
 
それともあなたは
内なる人をも無視し続けるのでしょうか。
 
 
(2015年01月01日、同日一部修正)
 
嘯く(うそぶく)