信仰の言論
 
 
聖書と信仰から
例えば私などが考えても
書くときには集中して
ときには苦しく
ときには気分良く書いたとしても
 
そして誰が考えても
人が考える信仰の道は
厳密に正しいということはない
それこそ
どこが正しくて
どこが間違っているかもわからないのだ
 
人は書くときに
自己の無謬性を否定しておかねばならない
 
信仰の道、人間の道を
書くことに意味があるのは
どれもが正しいとしてしまうと
とんでもない非人道的な神がかり的なことを
言い始める人がいるからで
 
それは聖書の読解においても
人の自由として好き勝手に読むけれども
その結果の正しさは担保されない
 
放っておいてよい問題ではないが
一方で正誤・正邪の基準のないところに
人は立たされている
 
これは基準はないが
基準はある・・という矛盾するようなところ・・
 
基準があるとすれば
私たちは人として生まれ持ち、
生きている間に身についた直観的で
証明のできないもの・・と言うしかない
そこにも神の導きがあるかもしれないが
人は知り得ないことだ
 
その感性または嗅覚ともいうべきものは
正しさを見つけるより
邪悪なものを見つけることや
矛盾がありそうですっきりしない感じ
などを通して
少しは物が言えるだろう
 
一見、整っているようでも
虚偽と悪に対する直感
何か変だ
何かに目をつぶっている
何かをこじつけている
何か偽っている
偽善だ
というときには
相手に告げて弁明を求めるべきです。
相手が急に黙り込んで
交流の双方向を閉ざしたら
疑いが深まったということです
 
罪や誤謬よりも
偽善について鋭敏でありたい
 
偽善に対する感性の極致は
キリストに見られるでしょう
 
 
(2016年01月28日)
 
無謬(むびゅう)
誤謬(ごびゅう)
極致(きょくち)