(批判)救いの条件
批判対象ブログ:その名は不思議
批判対象記事:御前に静まる
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27227370.html
(聖句)
「汝等しづまりて我の神たるをしれ」
(詩篇第46篇10節)
>この十戒はイスラエルの人々の救いの条件として与えられたものではなく、
>約束の地で神の祝福と恵みのなかで生きるために必要な戒めでした。
>なぜなら、神の祝福と恵みあふれる地にも、
>異邦の民が住んでいて、自然災害も起こる地でした。
必要な戒めは救いの条件ではないのか。
「救いの条件として与えられたものではなく」
とサラッと否定して済ませてよいのだろうか。
>神に対する信仰と畏れをうしなうなら、どんなに働いて食べ物、富を蓄えても、
>それは腐り、人の心をも腐らせてしまうのは今も変わることがないようです。
戒律だけでは人は神の民とならなかった
という重要なことを示しているのに
これでも旧約の時代
十戒、戒律、律法は救いの条件ではないと言うのだろうか。
十戒が救いの条件として与えられたことを否定する根拠があると言うのか。
それはどこに書いてあるのか。
旧約の時代には律法が救いの条件だったから
多くの罪を意識せざるを得ない人々が
聖職者によって救いから見捨てられた者と見なされた
という聖書の中の歴史を書くべきではないのか。
また言説を整えようとしていると思う。
>それは私たちの身近な現実であり、
>世界の厳しい現実ではないでしょうか。
そうです。
どんなときにも自らが権威であることを否定できず
砕かれた魂になることが出来ずに
手段を選ばず権威の体裁を守ろうとすることによって
もたらされた現実なのです。
>神は罪なきご自分の御子イエスをお遣わしになり、
>私たちの罪をご自分の罪として裁き、
>私たちに罪の赦しを与え、
>生ける神を畏れ、静まるものとしてくださいました。
作者は昔キリストの「静まれ、黙れ」を
人を黙らせる当てつけとして書いたが、
・・信じられない。今回彼は
いったいどんな心境と立場で聖句を引用して
この記事を書いて人に公に向けるというのだろう。
(聖句)
「汝等しづまりて我の神たるをしれ」
(詩篇第46篇10節)
そうです。
主の前に静まるのです。
神の前に静まるのです。
人の権威の前に静まってはいけません。
偽善の前に静まってはいけません。
(2016年01月30日)
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