「傷つける」
    他のブログに書いた私のコメントから編集
    引用は、A様(仮称)。「相手」=「彼」もHNを伏せます。
    「STさん」は私です。
 
 
傷つけていると思います。傷つけるほど書かないと反応しないと思いました。まあ今でもそう思います。それでもいつものように記事を書いて、砕かれた魂の欠片もない、と私には思えます。だから怒りが持続しています。根拠を示して指摘した分、罵詈雑言ではないと思っていますが、指摘は告発調ですからね・・
 
「STさんが相手を傷つけているという自覚をお持ちなら、
 それは明確に相手を傷つける意図があるということですよね?
 ううむ、それは議論としてはルール違反ではないでしょうか?」
  という御意見をいただきました。
 
重要なテーマをもらいました。難しいですけど・・
ネットに限ると言論ということになる、
また、傷つくと傷つけるのそれぞれ自動詞と他動詞の違い、
傷ついたことの確認、などの問題があります。
 
私の「傷つけていると思います」というのは、批判に手加減をしていない、手加減したら批判にならないもんな・・、ということの推測される結果についての感慨のつもりで、この場合、「(相手が)傷ついたかもしれない」もほぼ同義で使うだろうと思います。だから自動詞と他動詞の違いは明確ではないです。
 
例えばA様のような人が相手の場合、双方向ですから、反応した相手の筆致と内容から感じ取って、傷つくようなことを書いたか、あるいは、疲れさせてしまったか、と思ったら、私から聞くことも出来るでしょうし、相手から言うことも出来るでしょう。問題は、双方向の成り立たない場合、また相手が強がっている場合だと思います。
 
私は、A様とのかかわりなどから、批判するにしても、今は不十分でも、お互い、精神衛生を損なうほどの過激な批判が望ましくないことは弁えたいと思います。
 
相手を厳しく批判して、その反応として表れるのは、承認制でブロック、削除、コメント欄廃止、の3つを経験しました。レスがなく、双方向が成り立たない。
傷つけたろうな・・と思うことはあります。しかし、そのあとに出てくるのは、次の記事ですから、それを読むと何にも気にしている様子がないのです。それは私には、よく平然と書ける・・と、上から目線に思えてきます。記事だから、ということもあるでしょうけど・・。
 
コメントにおいても、「読んだ途端に怒り出す理由は私には全くありません」と書いてきました。それで私は、怒っていないという意味なら、怒らずに私のコメントを削除したというのか、と聞き返すことになります。(この時、私は、明らかに怒っていました。:記事「顛末」コメント欄参照)
そして私はコメントを書き、指摘しますが、彼は何も答えなくなります。
 
記事でも、コメントでも、いつも彼はそういう感じの、ぜんぜん応えていない、と見える人なのです。怒らずにコメントを削除したのなら、その精神は、まさに神の裁きではないか、いや、神も怒りを示す・・ということで、決して弱みを見せないこの人は、人間じゃなく鉄骨スーパー保身マシンか・・私は、何らかの配慮をする気が、その瞬間、失せてゆくのです。
 
彼のいつも余裕綽々と見える態度は昔からです。MLから約十年、ブログで5年、断続的ですが、よくも悪しくも、関わってきました。
 
もし相手が私だったら、当然のこととして言えると思うのです。「そんなひどい言い方しなくても」とか「ひどいこと言いますね」、もっと軽く「今日は疲れてきたので」・・言えます。私は弱みを見せます。彼は弱みを見せないことが信仰だとでも思っているのでしょうか。弱い人間という共感が彼との間には成り立ちません。それが強がりなのか、彼の信仰なのか、敵視しているためなのか、怖い権威主義なのか、記事では分からないし、上に書いたように、たまにコメント書いてきても、分からないのです。
 
それで、私は、少し優しくなって反省モードになっては、次には、かっと怒って批判モードになるので、私は情緒不安定ですが、さらに大きな振幅を繰り返しています。
 
それと、彼はどうも自分が今生きている罪人という自覚がないように思えるのですが・・救われた話ばかり書きますし、十字架について書いても、私から見ると安易に、救われる話に帰着させて置き換えてしまうような気がします。
 
強がりでなく一時的な敵視でもなく、罪人の自覚がないなら、また信仰からの権威主義なら、それによる敵視なら、同じキリスト信仰という名前でも全く違う信仰だし、私はそういう信仰は信じる気はないですから、和解はあり得ないです。というか、可能だとしても異教との和解になるでしょう。
 
 
(2016年01月30日)
 
弁える(わきまえる)
顛末(てんまつ)
余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)