情熱と狂気
   コメントの中で叫んだことの断片
   大まかには、相手に向かって、
   別の人(彼)のことを言っています。
   少し言葉遣いなど編集・修正しています。
   それでもまとまっていないところがあります。
   順序は前後しているところがあります。
 
 
彼は罪を認めない、彼は神様のつもりかもしれない、まだはっきり分からない、それは彼が聞くことをせず、かつ言うことだけは大仰だからだ、讃美ばかりの信仰なんてくそくらえだ、整った説教なんてくそくらえだ、私はこうやって命を縮めている、あなたはどうやって縮めているか、私は神にさえ駄々をこねる、殺してくれと毎日祈っている・・
 
そう私は異常だ、神経も異常だ、ある程度分かっている、鬱と言うより思考障害だろう、ネットオタクのような軽いコメントは書かない、聖書は全部は読んでいない、読書は遅くて間に合わない、今の私で人間でいられる道を求めている、あなたはどうなったら満足するのか、私は満足などしない、神の許へ行くと思い込んで死にたいのだ
 
 
私は人間になりたいのです
私は人間でありたいのです
だから(18歳からの)信仰を求めているのです
命を縮めながら書いているのです。
それを聞かない人を批判しているのです。
私は求めながら狂ってゆくのです。
 
教理の理屈を振り回す人、大嫌いです。
鬱も治っていません。
睡眠障害も治っていません。
頭もおかしいでしょう。
統合失調症かもしれません。
崖っぷちは辛いのです。
しかし振り絞って書いています。
あなたのように・・アハハは・・と笑いたいのです。
頭を横において、心をゴミ箱に捨てて、笑いたいのです。
あとどれくらい生きているか分からないけど
私は血迷いのふれ姿です。でも書くことはあるんだから
私を止められるのは神様だけだ・・
 
 
本音ですが、叫びに近い言葉の原始的なものでしょう、情けない人間だから信仰が必要なのです、人の話を聞かない人は平気で人を傷つけます、彼を変えるのではない、彼に関わってほしくない、彼を称賛してはいけない、彼には隠し事がある、私は悟っているなんて書きましたか、ではあなたは悟っているから人に文句を言わないのですか、ここにいっぱい書いていますけど、私は悟らない貧弱な人間もどきとして書いている、私が悟って聖人の立場で書いているとでも思ったのか、あなたの言うことも風のように過ぎ去って、私の言うことも風のように過ぎ去って、消え失せる前に、知りたいことがあるから、私はこのようにあなたにも耐えて、返しているが、自分の高みにふんぞり返っている彼は実に軽く考えている、彼は私の信仰の道に立ちはだかる、あなたの言う悟りなど、私には一生ないだろう、彼を正すためではない、私の死活問題だ、あなたには分からないだろう、今の救いよりも大切なものなど・・
 
彼は信仰は人それぞれだという、だから批判するなという、趣味ならそれでもいい、学問でもそれでもいい、あなたの信仰ではそれでいいのか、私の信仰はそういうものではない、最低限守るべき節操も、罪を犯しても決して犯してはならない偽善も、彼はお構いなしだ、好きなように神を信じて救われると思っている、そういう人に命を懸ける信仰を語ってほしくない、命を捨てる信仰を語って欲しくない、あなたの言っているのは社交の付き合い方だ、社交を考えている余裕はない、人間の知るべき真実がいくつもあってはいけない、大切な一つを彼はまるで気にかけていない、思いやりを考えるべき段階にないのだ、彼の信仰は・・キリスト者なら身についてゆく弱さが彼にはない、分からないだろうね・・
 
違う宗教なら私も知らないから何も言わないでしょう。しかしキリスト信仰という名で彼に語ってほしくはない、彼は罪人の立場で語っていない、聖書を受け取っているとは思えない、砕かれた魂の救い難い状況でのキリスト信仰を彼は知らない、彼の魂は砕かれていない、彼の魂は最初に救われたと思ったときから何も変わっていない、砕かれた魂で語らなければ何を書いても傲慢だ、彼は砕かれなければならない、私が砕くのではない、彼の信仰はあなたの言う社交と処世のエチケットで出来ている、信仰のみのろくでもない阿呆としての立場がない、どうしようもない自分から語っていない、罪深さを知らず、救われやすさを語っているだけだ
 
つまり彼は、神を、社交の友として、処世を助ける親切な先生として、楽しくやろうとしている、話は大きいが、中身はまるで内省していない、死ぬまでに人が為すべきことについて、多くのキリスト者は努めて考えているのに、悩んでいる人もいるのに、彼は放っておくと、その人たちをも彼のガサツな文章で斬ってしまうだろう
 
 
キリスト教について言えば
信仰は縁(えん)のようなものかな・・と思っています。
 
 教義、教理というのがありますが、大方それらは人が作ったもので、それを疑わずに信じ込むことが信仰だと思っている人が多いのは嘆かわしいことです。しかも信じ込むと訂正不能になって、何を言われても聞かない、しまいには相手を神の敵と見なす始末で、これが宗教の怖さかなと思うことが多いです。
 
 縁なのだから一生付き合っていくわけですが、恐れと敬虔・謙遜を持たないと、中には何をしても許されるというとんでもない信仰に陥っている人もいるようです。
 
二つの記事の四字熟語(色即是空、空即是色)は多くの人が知っていて、私は最初、性欲は空しいの意かと思っていました。(苦・汗)しかし後にテレビで現象と実体という話を聞いて考え、そういうことならクリスチャンでも考えるべきことはあるだろう・・という思いから書いたものです。
 
 信仰は縁だから、とてもシンプルだが言語化できないものだと思います。しかしそこから考えるべき対象つまりテーマは善と悪、正義と不正、愛と憎しみ、従順と背教、救いとは何か、などという複雑で難しいものです。しかしある程度は言語化できる可能性を持っています。恐らく結論は出ないでしょう。
 
あるとき目覚めて何か悟ってもそれを不変の言葉には言語化も出来ないでしょう。人間の言葉には誰であっても能力の限度があるからです。・・だからこそ折に触れて考えることと、双方向で意見を交わすことが必要になるのだと思っています。
 
 人によっては本当に勝手に自分の意見は書くけれど、他者と意見の交換しながら考えることをせず、自己満足だけで、聞かないで自分の意見だけを押し出して賛同を求めて、いい気分になっている人がいて、私にはクリスチャンとは思えないです。
 
なお双方向で議論したら真理が得られるかと言えば否だと思います。議論して考えること自体に幾ばくかの意味があるのだろうと思っています。結論は出なくていいだろうと思います。考えることだけでなく、感じて反応することも・・人間は止めてはいけないのでしょう。
 
 私たち人間のやるべきことは、間違いを指摘されながら、決して真理ではなく、共感を求めてゆくことだと思います。だから双方向の窓は小さくても開けておく必要があるのでしょう。
 
私が今まで批判してきたようなことは
 キリスト者なら誰にでも起こり得る間違いなのです。
 誰にでも起こりうる間違いを
彼が意に介せず共有していないようだから
彼にとっても彼に関わる人々にとっても危険だと判断しています。
 
 
(2016年01月31日、同日一部修正)