「(批判)自滅の道・・」
 
 ブログ名:その名は不思議
 記事:自滅の道と救いの道
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27230699.html
 
 
政治について語るなら
まず民主主義は批判を戦わせることから始まります。
政治家でなくても意見交換はできるでしょう。
 
さらに政治を宗教が語るに及んで、
キリスト教を信じれば万事解決する、
または、キリスト教を信じないからこうなった、
などという言説を誰が真に受けるだろうか・・
綺麗ごとばかり並べても、宗教は宗教で
何百年もの失敗の歴史を持っているのだ。
 
>私たち日本人は特に世間体を損なうこと、恥をかくことを恐れるようです。
 
彼は自分の恥を恐れて人のコメントを隠して
コメント欄に
自分がしっかり対応して説得したかのように小細工して
世間体を保ったつもりで
そのことを批判されるとコメント欄を廃止しました。
 
>その恐れのためによく本音と建前を上手に使いわけて生きることが求められ、
>それが大人であり、良くできた人、世渡り上手と思われているようです。
> 世間体で結びついて、表面を取り繕い、関係を維持している反面、
> 互いに本当に心を開きあったりできないで、自分の不真実さと、
> 他の人の不真実さをひそかに気にし、裁きあっているのではないでしょうか。
 
彼が言うと、ある意味、滑稽でさえあります。
「良くできた人」「世渡り上手」・・「表面を取り繕い」
賛同者との関係だけ維持しようとしたのは彼自身だから・・。
 
「自分の不真実さと他の人の不真実さ」
前者を隠し
後者を強制力をもって裁いたのは彼のほうですから・・。
 
裁くとは
他の人を神の立場で悪とか罪とか見なして
人を下に見て断罪することで
聖書により戒められています。
 
批判するとは
他の人を人の立場で間違っていると考えて
それを指摘することです。
 
前者は神の復讐つまり罰を期待します。
後者は真実を明らかにすることを目指し
問題の解決を期待します。
 
前者は神の立場なので訂正不能で
人の意見を聞きません。
後者はいつも双方向の窓口を開けておきます。
人の意見は貴重だからです。
 
また彼は優しい言葉を使って
こちらのコメント欄に
「怒る理由はありません」と書きました。
(私の記事「顛末」コメント欄参照)
自分がいかに平然として動じないかを言いたいようですが
怒っていないのに
人のコメントを削除して
コメント欄を廃止して他者の意見を消せるでしょうか。
 
彼は本心を言いません。
だからこちらの疑問も解けません。
平然としていられるのが本心ならば恐ろしい限りです・・。
 
ただ人を軽視して、さらに無視して黙り込んで
こちらが諦めるのを待つやり方のようです。
キリストの前に弱い人間同士にはあり得ない処し方です。
 
>日本は他の異なる民族や文化との交流の少ない狭い島国の農耕共同社会ですから、
>人間関係がスムーズでないと生きづらい、息苦しい社会になってしまいます。
>そのような日本人にとっての宗教は互いの間の風通しをよくし、
>互いの関係を淀んだものとしないためにあるようです。
 
彼はネットでの人間関係を拒否したのに
人間関係について意見を述べたいようです。
さらに社会や政治の問題にまで言及しているようです。
 
>今日、世界的な秩序を築くためにはなにか必要なのでしょうか。
 
>普遍的な新しい秩序の共通した土台が構築できないまま、関係が複雑になり、
>国も企業も、教育現場も、家族関係も、個人としても混乱しています。
>世界全体が、すべての人が一つの共通の秩序の土台を築くことなしには
>これからますます混乱を深めることを避けることはできないでしょう。
 
>イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、
 
>「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない」と。
>(新約・マタイによる福音書12章25節)
 
>今日の日本の政治状況をはじめ、社会、教育、企業、家庭は秩序を失い、
>まさに内部で別れ争う国となっています。
>行き着く先は自滅であり、立ち行かないのです。
 
今の国内を分かれ争う国と同じに考えて
 
>それぞれが自分のために造った神ではなく、この天地万物を創造し、
>私たちをご自分の形(霊的、人格的存在者)にかたどって造られ、
>愛しておられる生けるまことの神を畏れることが唯一、共通の土台なのです。
 
それを解決するには
自分の同じ信仰を国中が持つことだと唱えています。
 
「唯一、共通の土台」が成り立たないから苦悩が続きますが
彼の言う信仰が共通の土台になることは
もっと怖いことのように私には思えます。
 
>しかし、驚くべきことですが、そのイエスの十字架の血潮は神を拒み、
>イエスを拒んだ私たちの罪を
>神のひとり子の命という代価を払うことによって、
>あがなうための神の救いの計画によってなされたことなのです。
 
加えてキリスト教についての教理を披露して
驚くべきことだと言っています。
 
>イエスによって、神と人の間の敵意、罪を取り除き、
>神と人とが和解することによって、人と人と間の不信と敵意をも
>取り除かれるのです。
>神はイエスによって、この世界に、すべての人に平和をもたらされたのです。
>決してキリスト教という一宗教ではなく、イエスご自身によるのです。
 
彼はイエス・キリストご自身の心も知っていて
すべて解決すると言いたいようです。
 
今の国の望ましからざる状況は
誰しも考えるところですが
 
彼の述べるような教理の話は
キリスト者なら誰でも知っていることです。
 
同様に
教理的な話を繰り返しても
政治や社会や人間関係が解決しなかった
という日本や世界の歴史も多くの人は知っています。
それゆえ
宗教人もそうでない人も悩んでいるわけですし
うっかり政治のことは語れない・・と慎重にもなるわけですが
 
彼は
宗教が宗教的言辞をもって政治の話をすれば
キリスト者および聖職者の義務を果たしたことになる
と思っているようです。
こういうのは時々見かけます。
聖書ですべてが解決するような誇大的な信念・・
 
総ての人がキリストの道を歩めばよい
というのは
結果としては総ての人が善人になればよい
というのと同じです。
これほど現実認識を欠いた政治の話はないでしょう。
人々にキリストの道を紹介したいという志なら
現実問題を書くべきでしょう。
 
彼はその初歩である人間関係の問題さえ解決できていない人です。
 
彼の文章を読んでください。
丁寧な言葉遣いの中に
自分の信仰ですべては解決できると壮大に思い込んで
コメント欄もトラックバックも批判されるからと廃止して
人の意見の入る方法のない閉鎖空間で
独り言のように
人間関係を、社会を、国を、政治を、
単方向で語ることだけ続けている人を見てください。
 
 
(2016年02月01日、同日一部修正)
 
志(こころざし)