「近代的自我・・」
 
 日常×非日常(Ordinary eXtraOrdinary)
 近代的自我からの解放
 
http://blogs.yahoo.co.jp/masatakahamazaki/27285616.html
  に書いたコメント。一部、間違いを修正しています。
 
 
vernunftさん
 
「自分中心に考えてしまうと、真理も自分を強く見せる手段になってしまいますが、そうではない神の真理・・・」
 
この引用は「愛国と信仰」のvernunftさんのコメントの引用ですが、今日の記事の「我惟う、ゆえに我あり」から「我なし、ゆえに我あり」へと「自我」を解放することによって、近代的自我から脱却し、その観点からキリスト教を近代の呪縛から解放し・・・「我なし、ゆえに我あり」というのが「本来のキリスト教」ではないかというvernunftさんの感じておられることに、私も同感できるような気がしてコメントしました。
 
2016/2/26(金) 午前 11:49 [ shalom ] 返信する
 
イエスの十字架の姿は神の前に「我なし」の姿であり・・・よみがえられたイエスとの出会いによって、「ゆえに我あり」という新しい我との出会いによって、「近代的自我から脱却し、その観点からキリスト教を近代の呪縛から解放する」道がイエスの十字架の死とよみがえりによって、回復され、解放されている、これが福音ではないかと思います。
 
 私はむずかしい哲学的思考は苦手ですから、伝えたいことがよく表現できているか自信はありませんが、vernunftさんの「愛国と信仰」でのコメントに私なりに感じられることをコメントしようとしていたのですが、その前に、ふと心にかかり先にコメントを書きました。
 
2016/2/26(金) 午前 11:52 [ shalom ] 返信する
 
 
たしかにイエスの死と復活は「我なし」「ゆえに我あり」として捉えることができますね。その場合、復活を見越した死であると、最初から「我あり」ということになって、近代的自我の発想に帰着してしまいます。復活という結論を最初から教えられているキリスト教徒は、復活を見越していない死を考えることができなくなっているような気がします。それがキリスト教のいろいろな間違いにつながっていくのではないかと思います。
 
ややこしい話にお付き合いくださり、ありがとうございます。
 
2016/2/26(金) 午後 1:18 vernunft 返信する
 
 
> vernunftさん
 
人が「われ思う。ゆえに我あり」という近代的自我として生き始めたのは、神が食べてはならない、それを食べると死ぬでしょう、と言われた「善悪を知る知識の木の実」を食べることから始まったとは言えないでしょうか。本来神にあるがまま受け容れられ、人も互いに恥ずかしいとは思うこともない、「我なし」であったと書かれていますが、神が食べてはならないと言われた善悪を知る知識の木の実を食べることによって、人間はそこから神の前に我なしのあるがままの姿で互いに受け容れることが出来ない、「我思う。ゆえに我あり。」近代的自我としてすべてを相対化せざるを得ない知識の囚われ人として生きていかざるを得ないものとなったのではないでしょうか。
 
2016/2/26(金) 午後 2:18 [ shalom ] 返信する
 
 
「今、いのちがあなたを生きている」
「我なし、ゆえに我あり」
言い方変えるだけで納得するのは、魅力的な言葉の響きも響きだけで、結局、詭弁みたいなもので終わってしまう可能性も感じてしまいます。
 
「近代的自我からの解放」「無我の我」という言葉も、今まで知らなかった観念の結びつきで、何か新鮮なものを感じますが、これらも観念のままだと、素人が聞くお経のように、無感動に落ちてゆく可能性があると思います。また、最初は新鮮だと思っていたものが、何度も繰り返しているうちに当たり前の先入観になって、同じ言葉だから正しいと思ってしまうと、いつの間にか、最初の感じ方とは凡そ違った呪文になっていることに気づくこともあるでしょう。気づかない人もいて、同じことを繰り返しては、感動しなければならないから、感動した言動を、条件反射のように繰り返しているというのを見ることは珍しくありません。
 
2016/2/27(土) 午前 1:29 [ st5402jp ] 返信する
 
こういう言葉は、新しくて、未知であったものを知ったように、心を揺さぶります。その多くは、警句的、格言的、端的な表現であり、また逆説的表現であることも多いと思います。実際、「あり」が「なし」になり、主客が転倒して、インパクトが強くなっているわけです。せっかくの逆説ですから、表現との対比を常に考えるべきで、その上で、実践的に、どう生きてくるかを見る必要があるだろうと感じました。
 
そして聖書の言葉も、多く逆説的表現を伴っているのです。キリストの言葉もしかりで、従来の宗教観とは逆の見方として、当時の人々には、分からないけれど、惹かれる・・ということがあったのではないかと思います。そして、キリストは、それらの言葉に、約束を守るという一貫性をもって実質を、昇華させていったのでしょうか・・
 
2016/2/27(土) 午前 1:30 [ st5402jp ] 返信する
 
観念と観念の意外な結合に新しい目覚めを期するなら、観念と観念の結合の言い古された意味や概念を繰り返して讃美しまくる人々とは違う人間的感性を開かせるために、新しい一貫性の気づきにまで掘り下げる努力は、物珍しさだけを称賛するような讃辞ではなく、日常から生まれてくる非日常が、再び返ってきて、日常を変え得るものになったとき、一つの通過点を表すのだろうと思います。ちょっとまとまりませんが・・
 
2016/2/27(土) 午前 1:31 [ st5402jp ] 返信する
 
また、元の「我思う、ゆえに我あり」は、今も存在を語る上での立派な通過点だと思います。誰が、人の言葉で、これを否定できるでしょう。この話を、失楽園の教理話と結び付けて、勝手な解釈で、単純かつ安易に否定し、罪の結果であるかのような言いがかりをつけて結論とするのは、上に述べたように対比を考える上で、「我なし、ゆえに我あり」とは、正反対の解釈になってしまい、こういう単純な否定で、先人の所産も台無しにしてしまうような、独善の教理漬けに陥らないようにするべきでしょう。まことに何でも教理話に帰着させるという、頑迷で、聖書語を絶対軸に、言葉を舐めているような、古い習慣から脱し得ない偏向の曲解こそは、あらゆる新しい知恵を陳腐にしてしまう不当で幼稚な干渉として、考察の領域から離れたところに札付きの骨董として、遺棄されるべきものと考えます。
 
2016/2/27(土) 午前 1:32 [ st5402jp ] 返信する
 
まさに
「自分中心に考えてしまうと、真理も自分を強く見せる手段になってしまいます」
を避けるために、言葉が、先入観や、聖書語や、教理一辺倒の解釈によって、短絡や、自らの偏った解釈や、自己満足や、他者を貶める当てつけや、言葉の恣意的汎用、などに利用されることにだけはないように、注意深く吟味する必要があるのだと思います。
 
2016/2/27(土) 午前 1:41 [ st5402jp ] 返信する
 
まったく、哲学の言葉から新しい言葉まで、自分勝手なキリスト信仰解釈の奴隷に落としてしまうなど、私は、信じられない思いでいっぱいです。
 
2016/2/27(土) 午前 1:45 [ st5402jp ] 返信する
 
 
(2016年02月27日、同日一部修正)