厄介な観念
 
 
神と地上の何かと
両方に仕えることは出来ない
 
信仰と社交と
両方に仕えることは出来ない
 
社交をしてはいけないという意味ではない
 
付き合いのすべてが社交だけになってはいけない
 
 
観念について考えはするけれど
観念をつなげば信仰になるわけではなく
観念だけでは感動からも情感からも遠くなるだけだ
 
信仰者が仕えるべきは
神・キリスト・聖霊ということになるが
 
三位一体という理屈で
一つということになっているが
 
私の中では飼い主は
キリストであり救い主でもある
 
父なる神は創造主だが
人格性のイメージはキリストのほうが鮮やかである
 
聖霊となると人格というイメージもない
 
三位一体で
分かっているつもりの人はいても
本当に分かっている人はいない
 
観念の厄介なところだ
観念に仕えてはいけない
 
 
全能だから神を信じるのではない
人は全能を理解できない
 
全ては神から来ていると安易に納得する信仰は
自分の言動もすべて神から来ていると正当化するのか
 
信仰者の作為体験・・厳に戒められるべきだろう
 
すべての人の言動は神から来ていると言うなら
他者の言動もすべて神から来ていることになり
ではいったい今の世を乱しているのは誰なのか
という矛盾に陥る
 
信仰者の言動は神から来ていると言うなら
信仰者は常に正しいのか
そうではない
と否定するのは信仰者自身でなければならない
その否定がなければ信仰ではないからだ
 
観念の厄介なところだ
観念に仕えてはいけない
 
忘れてはいけない
 
全能は正体不明のままだ
 
全能者の憐れみも懲らしめも
人に対して最善であることを信じ
切々と祈り願って止まないのが信仰である
 
 
神が全能であることは
常に
人が不全であることを表している
 
 
(2016年02月28日、同日一部修正)
(2016年03月05日、一部若干修正)