汚れ
 
 
単純な比較として
言葉での一つの矛盾について
 
1.「汚れていない」と思うことで汚れる必然
 汚れているという自覚がないので
 慢心→汚れに対して無防備→慢心が継続する必然
 
2.「汚れている」と思うことで汚れる必然
 汚れていると自覚することで
 自覚するゆえに
 自覚したとき、汚れていないという慢心が生まれ
 それは既に汚れである必然
 自覚を持つ分、無防備ではないが
 矛盾してくるし、ジレンマでもある
 自覚は折に触れて日常的に持つことが出来る
 慢心は断続的
 
2.のほうが1.よりはマシ、
特に、1.は不可と言うべきである
 
どうしても人間は汚れる必然を持っている
という、さらなる自覚
 
加えて
自分の信仰を
思考の理路に置いて実験的に
いったん偽物として対象化してみること
 
人が確かなものを信仰に求めるとき
それに答える信仰の確かさは大方偽物だろうという推測
偽物、または、この世では、大方、仮のもの・・?
 
正しいと思っても
言葉に出せば汚れるということで
ここで言葉で信仰を語らないという選択は
事態をますます不明にしてしまうので、なおさら不可
 
結局
自分の力だけでは
信仰を正しく保つことは不可能である
 
祈るしかない
という結論に至るのが精一杯・・
 
祈ったからいい
ということでは決してないのだが・・
 
 
罪びとの自覚がなければ
そのまま高ぶり
罪びとだと自覚すれば
自覚したことで高ぶるジレンマは
 
自分を対象化して客観視することが
何よりも自分自身によって
結局は不可能であることを示している
 
だから自分が自分である間
つまり生きている間
常に正しくあることが不可能であることを示している
 
だから折に触れて反省するしかない
自分を「常に」の常態に置かず
「折に触れて」の動態に生きることが大切なのだろう
 
信仰の平安の境地なるものを得た
という完了と固定が
いかに悍ましいかを示しているのだろう
 
※ 
 
人の根源の究めがたきを思い
人の罪性の避けがたきを思います
 
 
(2016年03月25日、同日一部修正)
 
このテーマは難しそうです・・(嘆)
 
汚れ(けがれ)
≒悪の作用として、
あらゆる罪、慢心、傲慢、思い上がり、
というような意味で使っています。
 
汚れ(けがれ、穢れ)
悍ましい(おぞましい)
究める(きわめる)