復活について
 
 
イエス・キリストの肉体の復活があったと信じなければキリスト者ではないのかという問題が、昔からあったようです。聖書には、肉体を持ったキリストの復活が書かれているからでしょう。聖書の話ですから、霊的なことを比喩したのだとか、伝承に過ぎないとかいった、説もあるようです。それは、聖書の解釈として、当然、あってよい説だと思います。
 
私が大いに不満なのは、創世記の解釈と同様、どれかに決めて、信じ込まないと信仰ではないという考え方です。そうではなく、無知と言われようと、背教と言われようと、信じられない超常的なことについては、分からないものは、分からないというのが、正直な信仰だろうと考えます。
 
ですから、正直な信仰を何よりも重要視して、どれかを択一的に選ぶことが、信仰、または、信仰が厚いことだ、と見なす傾向には、これは特に肉体の復活を唱える人に多いのですが、反対します。
 
二千年前の肉体の復活がなかったというのではなく、分からないということです。分からないということは、事実かどうかの判断を保留するということです。今の信仰が二千年前の、あったかどうか、分からないことを、理由も根拠もなく、どういうわけか、無思考に、あったとすることに依存するというのは、人間の時空を超えた神秘が大好きで、神秘でなければ信仰ではない、という、赦され救われ癒やされ生かされる恵みを賜る人間性とは別の、超常的なことばかり考える、強迫的で脅迫的な、人間性から離れたがる人の信仰で、人間性から離れたがる、という一点において、すでに、間違っています。
 
復活や様々の奇跡などは、神秘であります。神秘は、神の秘密、人には、秘されていることです。これは、人が、知らず、気づかず、捉えられない、信仰の秘儀であります。しかしながら、この神の秘密を知ったと思わなければ信仰ではないという考え方が、古くからあり、これは、上に述べたように、超常を追いかけて、分かったと言わなければ気の済まない方向に、人を駆り立て、人を、人間離れさせる方向だから、反対しています。
 
人間の時空を超えた世界がないというのではなく、それがこの地上のものではないとか、この地上では起こらないというのでもなく、・・そういう超常は、どこで起こるにしても、断じて、人のものではなく、神のものであるということです。
 
その自覚を、神を恐れ、神に対する、人としての身の程を弁えることであると考え、その弁えを、神とは違う人という被造物の、謙虚、謙遜、敬虔、と呼んでいます。そして、それは、そのまま、人に対する態度に表れるものだと思います。そういう敬虔を、上辺だけの社交の、丁寧、柔和、優しさ、とは、本質的に異なるものとして主張しています。
 
 
(2016年03月28日)