人間乖離
 
 
人間学者に、
人は人、神は神、
と言われたら、大喜びで
神は神なる絶対の神について
氷結した教理をだらだらと語って悦に入る
 
それは人間学とは何の関係もありません
 
知り得ないことを
知ったと思い込む信仰を批判すれば
使徒信条みたいなことを長々と書いて
信仰の考え方は自由だが
これだけは譲れません
と書いて反論したつもりでいる
 
個人が譲るかどうかは
真実とは全く関係ありません
 
信仰は
総ての人間を救うのだから
個人にとって真実かどうか
という主観とは別のものです
 
また
個人が納得するための
信仰の要素と条件は
まさに個人が人間であることだけです
だから
人間であるということだけでは
納得できないというなら
それは単にその人が
信仰に向かないということに過ぎません
 
事実か霊的か伝承か
キリストの肉体の復活について
真偽の分からない大昔の超常を
信じ込んで分かったつもりになっている
 
信仰は
聖書に書かれていても解釈の様々な
死体の甦りという復活の
二千年前に依存しているのですか
 
そのために今の真実が
疎かになっているとは思わないのですか
 
聖書の解釈を語るときには
すべて神の意志による神の業として
神、神、と聖なる超常以外認めないから
 
そのように人間の情感を無視して
冷たい解釈を言い張って
鼻息荒く目を剥いてくるような解釈には
人間の温もりが全然感じられません
 
柔らかく言えば
はぐらかし
はぐらかすから問い詰めれば
削除する
 
怒りを指摘すれば
「怒って削除する理由はありません」と
言葉でだけ怒りを否定するが
 
怒っていないのに
どうしてコメントを削除するのですか
 
分からないと正直に言えないのですか
 
分からない
という共感の立場に立てずに
支配欲と保身と
何より信仰の絶対化から
自説の絶対化に凝り固まる信仰を押しながら
 
キリスト信仰について書いたコメントを
日課のように平気で抹殺して過ごす保身が
平安な信仰生活だと言うなら
 
そんな平安を誰が欲しがるのだろうか
 
 
(2016年03月29日)
 
乖離(かいり)
譲る(ゆずる)
疎か(おろそか)
業(わざ)
剥いて(むいて)