超常信仰
 
 
受難と磔刑の孤独な死
という大いなる思考の門を素通りして
 
復活したと超常嗜好は
肉体も精神も蘇ったという喜びの
広い門に寄って集って
安心を求めようとする
 
救いの条件もプロセスも
神の超常のみを理由として
超常でないと感動できない者たちは
身近に訪れる魂の奇跡も
人間の関わる信仰の話も
受け取る感受性をいつしか失って
 
どこかで起こったという死人の蘇りを
証拠もなく
神の御業の奇跡だと声高に宣伝し
やたら進化論を敵にまわして
総ては最初から完全な完成の姿だったと
神の恵みを拒む輩と蔑んで
何故か極めて現実的な自らの悲惨な姿から
目を背けているのである
 
人間の感受性を失った信仰は
超越的な立場から人を見下ろし
 
次は他の人間の感受性を
真理の神の名のもとに失わせるだろう
 
超常が好きなのは自由だし
解釈の一つとしてもあり得るが
超常を
超常でない人間に宛がうのは間違っている
 
 
(2016年03月30日、同日一部修正)
 
蘇る(よみがえる)
集る(たかる)
御業(みわざ)
輩(やから)
蔑む(さげすむ)
宛がう(あてがう)