三位一体
 
 
父・御子・御霊
すなわち
神・キリスト・聖霊
という三位一体は
聖書解釈からの教理的仮説である。
 
三つの位格があり、それは顕れ方の違いであって、一体である、という・・
 
顕れ方の違い、という理解を経ても、なお、その本質は不明であり不可知である。
 
ここには、人間の、特に言葉の、限界を感じる。
 
 
人間の言葉の限界、神に対する無力は明らかで、
前に書いたことだが、
「自殺は最大の罪」は、自殺したら、地獄行き、を意味しない。
人間は、天国も地獄も見たことはないし、見ることは出来ない。
自殺者の裁きは、神に任される専権事項でしかありえない。
では何故、「自殺は最大の罪」などと言う言葉が生まれたのか。
ここには、限界を痛感して、困り果てたゆえの、叫びがあると感じている。
恐らく、自殺した人のことを聞かれての苦し紛れの経験があるのだろう。
 
犯罪者に対しては
悔い改める機会がある・・まだ生きているから。
 
自殺者に対しては
もうこの地上から、手を伸ばすことも、言葉をかけることも出来ない。
 
全てを神に任せるしかないが、
人間らしい人情として、納得が出来ず、蟠る・・。
 
そこから、そういうことにだけは、ならないでくれ
という叫びが込められている、と思う以外にないのである。
 
 
三つの位格については、
三つと数えてよいのか、
一体とは何をもって一体なのか
一体が同一ならば、なぜ区別するのか
と言ったような問題は、この地上に残り続けるだろう。
 
ここにも、
神は唯一であるが、
三つの聖なる御方を表す言葉があり、
キリストは神を父と呼び、
キリストが聖霊を聖霊と呼び
御自身とは別のように呼ぶ話が聖書にあるため
言葉の限界があり
伝える立場の人の苦し紛れでもあり
不可避の一応の呼称として
三位一体は生まれ、
人の世界における神の領域の仮称として使われている。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
12:31
だから、あなたがたに言っておく。
人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。
しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
 (マタイ12:31、新約聖書)
 
誰も三位の一つも確定的に理解は出来ないのだから
仮称だという自覚があれば
それでも信仰は可能となるからだ。
 
言葉は人間世界のマクロにおいては
ある程度の大雑把な理解と共有が可能だが
言葉はとても大きいであろう神の世界や
とても小さい心の世界では
相対的で不確定と言わざるを得ない。
 
そういう限界の存在を認めながら
キリスト信仰は
それでも語らなければ始まらない精神の動機によって
語り続け、語り継ぎ、伝道し続けて
個人の終末と
世界の終末に向かっているのだろう・・。
 
 
(2016年04月01日)
 
顕れ(あらわれ)
蟠る(わだかまる)
大雑把(おおざっぱ)